第2話 外せないから困ってる
『外せば?』
次のコメントは、あまりにももっともな提案だった。
画面を眺めながら、俺は膝の上のしっぽに手を置いた。作り物だと思って見ているなら、椅子に挟んで痛がる理由もよく分からないだろう。衣装の一部が邪魔なら外せばいい。それで済む話だ。
「外せないんです。ちょっと、そういうやつで」
口にしてから、ひどく曖昧な説明だと思った。けれど、朝起きたら生えていたと話したところで、たぶん今よりややこしくなる。
コメントを書いた人の名前は『ねじまき』だった。プロフィール画像は小さな工具の絵で、どんな人なのかは分からない。俺の返事を聞いて立ち去るかと思ったが、視聴者数は一のまま、しばらくして次の言葉が届いた。
『外さない前提の相談ね。椅子の形は?』
そう受け取ってくれるのか、と少し驚いた。俺はカメラを持ち上げかけて、顔が入らないように手を止める。代わりに立ち上がり、椅子だけを机の脇へ引き出した。
「こういう、普通のやつです。下にキャスターがあって、背もたれとの間に隙間はあるんですけど」
映っている範囲を確かめながら、座面と背もたれの間を指で示す。しっぽをそこへ通そうとすると、身体をひねって片手を後ろへ回さなければならない。何度かやっているうちに先の毛が引っかかり、根元を引かれる感じがして、すぐ手を離した。
『無理にそこへ通さなくてよさそう』
『背もたれ使わず、浅く座って横へ出せる?』
「朝、それはやったんです。でも、下に垂れると床につくし、膝に乗せると机との間が狭くて」
困っていることをまとめて話すと、文字が途切れた。細かすぎる相談だったかもしれない。待っている間にも、俺は片手でしっぽを抱え、もう片方の手で椅子を支えていた。
『隣に置く台ある? 箱とか』
部屋を見回すと、棚の下に空の段ボールがあった。先週、洗剤やらティッシュやらをまとめて頼んだときの箱だ。いつか捨てようと思って、まだ畳んでいなかった。
「段ボールならあります。ちょっと待ってください」
箱を引っ張り出して戻ってくると、コメントが一つ増えていた。
『座るのは椅子ね。箱はしっぽ置くだけ』
「そこまで信用されてないんですか、俺」
言いながら、箱に腰を下ろすことも少し考えていたので、素直に椅子の脇へ置いた。箱の上には、畳んだバスタオルを敷いてみる。高さは座面より少し低かったが、しっぽの途中を支えるにはちょうどよさそうだった。
浅く腰かけて、横へ逃がしたしっぽをタオルの上へ乗せる。根元が圧迫されず、先も床につかない。膝が空いたので、机へ近づくこともできた。
「……座れました」
確かめるように両手を膝から離した。今まで片手がいつもしっぽの世話をしていたので、二本とも自由になるのが妙に嬉しい。
マウスへ手を伸ばしても、背後を気にする必要がなかった。もちろん背もたれには寄りかかれないが、朝食のときよりずっと楽だった。
『よかった。立つとき箱の位置注意して』
「はい。ありがとうございます。これ、昼飯も食えそうです」
『そんなに困ってたの?』
笑って返そうとしたところで、しっぽの先がタオルの上を滑った。箱の端から落ちそうになって、慌てて手を添える。嬉しくなると勝手に動くのか、それとも落ち着かなくて動いているのか、まだ自分でも区別がつかなかった。
『動いた』
その一言を見て、俺の手が止まった。
しっぽは画面の中で、ゆっくりと先を曲げている。意識して止めようとすると、今度は根元に力が入って、箱から持ち上がりかけた。
「……落ち着きがないんです、こいつ」
『自動で動くやつ? 凝ってるね』
答えを考えているうちに、机のスマホが震えた。何かに救われたような気がして手に取ると、時計がもう十一時四十八分を示している。友達から『あと十分くらいで電話する』とメッセージが来ていた。
「すみません、電話の約束があるので、今日はここまでにします。相談、乗ってくれてありがとうございました」
『どういたしまして。箱は仮置きだから、長く使うならちゃんとした台にしてね』
俺はもう一度礼を言い、配信を終えた。終了の表示を確かめてから、カメラも抜いて机へ置く。
結局、最後まで見ていたのはひとりだけだった。大勢に説明する必要がなかったことにほっとして、それから、ひとりは話を聞いてくれたのだと思い直した。
配信の履歴には、俺が打った妙なタイトルが残っている。消すか少し迷ったけれど、とりあえず公開範囲を自分だけに変えた。しっぽのことをどこまで人に見せていいのか、もう少し考えてからにしたかった。
*
電話が来るまでに話す内容を整理しようとして、俺はメモ帳を開いた。
朝起きたら身体が変わっていた。女の子になった。狐の耳としっぽがある。理由は分からない。
そこまで書いて読み返すと、やはり説明としてはどうしようもなかった。せめて写真があったほうがいいと思い、スマホを持って洗面所へ向かう。鏡に映る自分としっぽが一緒に入る角度を探しているうちに、着信音が鳴った。
画面に出ていたのは、三浦の名前だった。大学に入ってからの友達で、うちにも何度か来たことがある。先月は課題を一緒に片づけるつもりで集まったのに、あいつが買ってきた棚の組み立てを手伝っているうちに、夜になっていた。
あの棚のときも、俺たちは部品の向きを間違えた。さっきの配信を思い出して、ほんの少し笑いそうになったところで、通話ボタンを押した。
「もしもし」
向こうでざわざわと声がしたあと、三浦が答えた。
「……あれ。番号、合ってるよな」
「合ってる。俺」
「お前のスマホ?」
「俺のスマホで、俺が喋ってる」
朝から考えていたとおりのやり取りになった。覚悟していたはずなのに、いつもの相手に声を認識してもらえないのは、思っていたよりきつかった。
返事を待ちながら洗面所の鏡を見る。スマホを耳に当てる位置まで、今日はしっくりこない。いったん離してスピーカーに切り替えると、三浦の声が少し大きくなった。
「困ったことって、声?」
「それもだけど、ほかにもある。今、ひとりで見られる?」
「ちょい待って」
足音が続き、周りの話し声が遠ざかった。俺はさっき撮った写真を選ぶ。送信ボタンへ指を伸ばしたところで、背中に汗がにじんだ。
こんな写真を送りつけて、笑われたらどうしよう。何かの冗談だと思われて、会話が終わったら。三浦はわざと人を困らせるようなやつではないが、この話を受け止めてもらえるかどうかは別だった。
「送った」
言ってしまうと、もう引っ込められなかった。通話の向こうで衣擦れの音がして、それからしばらく何も聞こえなくなる。
「……お前んちだな」
「そう」
「洗濯機の上、まだ靴下置いてんの」
鏡越しに、昨日から置いてある靴下が写っていた。別のところを見てほしいと思いながらも、いつもの調子が混じった返事に、少し息がしやすくなった。
「今はそこじゃないだろ」
「いや、知ってる部屋か確認してんの。写真の子は誰?」
「俺。今の俺」
また間が空いた。俺はスマホを持つ手を替え、反対の手でTシャツの裾を握った。
「朝起きたら、この身体になってた。耳も、しっぽも、取れないやつ。声だけ変えて遊んでるとかじゃない」
「……ちょっと、整理させて」
三浦が低く言った。すぐに信じろと言われても無理だろうし、俺自身だって鏡を見たあと、何度も確かめた。分かってはいたが、沈黙が長くなると、何か説明を足したくなった。
「昨日は普通だったんだ。帰ってうどん食って、課題やって、風呂入って寝ただけで」
「うん」
「今日の一限は休んだ。病院も調べたけど、行っていいのか分かんなくて」
「うん。分かったから、ちょっと待て」
言葉を止めると、スマホから小さな息が聞こえた。
「ビデオ通話、できる?」
切り替えて、顔が映るようにスマホを持ち直した。画面の中の三浦は、大学の建物の外にいるようだった。俺を見るなり目を細め、それから普段よりずっと真剣な顔になった。
「そのシャツ、去年一緒に買ったやつ?」
「二枚で安くなるから、お前のとまとめて買ったやつ」
「俺のはどうなったっけ」
「洗濯機にティッシュ入れて、お前が駄目にした」
三浦が口元を押さえた。笑ったのか、考え込んだのかは、よく分からなかった。
「……喋ってる感じは、お前なんだよな」
その一言に、Tシャツを握っていた手が緩んだ。間違いなく俺だと言ってもらえたわけではない。それでも、写真の中の誰かではなく、俺に向かって話してくれている気がした。
画面越しに耳を触ってみせると、三浦の視線がその動きを追った。しっぽも映るよう身体の向きを変えたが、洗面所は狭く、先が洗濯機にぶつかってしまった。
「本当に、これからどうすればいいか分かんなくて」
言い終わる頃には、冗談めかす余裕がなくなっていた。自分の顔を見たくなくて、画面の隅から目をそらす。
「……うん。俺も、今のところ全然分からん」
三浦は困った顔のまま答えた。けれど、そのあとすぐに、今日は午後に講義がないことと、今からこちらへ来られることを話し始めた。
「写真と通話だけで信じた、とはまだ言えない。でも、お前が困ってんのは分かった。行ってもいい?」
「来てくれるなら、助かる」
「じゃ、飯買ってく。食べられそうなものある?」
普通の質問だったので、俺はかえって答えに迷った。狐になったわけではないはずだが、何を食べていいかまでは考えていなかった。
「朝はパンと卵食った。今のところ、大丈夫」
「じゃあいつもの弁当でいいか」
「頼む」
三浦は頷き、もう一度俺の耳を見てから、少し言いにくそうに口を開いた。
「あと、何かいる? 外、出づらいだろ」
その言葉で、俺は部屋に戻り、椅子の隣の段ボールを見た。さっきはこれで十分嬉しかったのに、誰かが来てくれるとなったら、頼みたいことが浮かんだ。
「安いクッション、一個。できれば、長いやつ。しっぽ置きたい」
「……しっぽ用?」
「今、段ボールの上に置いてる」
カメラを向けると、三浦は箱とタオルをしばらく眺めた。
「朝から、そこまでやったのか」
「俺ひとりで思いついたわけじゃない。ちょっと人に聞いた」
「ほかにも相談したの?」
俺は配信のことを短く説明した。顔は出していないこと、見ていたのはひとりだけだったこと、相手には作り物だと思われているらしいことも付け加える。
三浦は何か言いかけたが、口を閉じ、また段ボールへ目を向けた。
「分かった。それも、行ってから聞く」
通話が切れると、部屋は急に静かになった。けれど、朝の静かさとは少し違って感じた。
俺は玄関まで歩き、足元の靴を壁へ寄せた。いつもなら三浦が来るくらいで片づけたりしないが、今日はここでしっぽを踏まれたら困る。
それから洗面所へ戻り、洗濯機の上の靴下をかごへ入れた。三浦にまた何か言われるのが嫌だったのもある。昼の電話まで無事に済ませたことで、ようやく部屋の散らかりを気にする余裕が出てきた。
机に置いたスマホへ、新しいメッセージが届いた。
『クッション、色は?』
どれでもいい、と打ちかけて、膝の上に広がっていた毛を思い出す。今朝はパンくずを取るだけでも手間だった。毛がついたとき、分かりやすいほうが掃除はしやすいかもしれない。
『濃い色がいい。毛が落ちても見えるやつ』
『了解』
返事を見届けてから、俺は椅子へ浅く座り、しっぽをタオルの上に乗せた。ひとりで悩んでいた朝より、やることが少し増えている。病院や大学のことはまだ何も解決していないが、まず昼飯を食べ、そのあと三浦と考えようと思えた。
隣に置いた段ボールは、ひとまず昼まで使えればいい。そう思って眺めると、さっきよりずっと頼もしく見えた。




