第1話 とりあえず、しっぽをどかしたい
寝返りを打った途端、尻のあたりに鋭い痛みが走った。
「いっ……」
半分眠ったまま腰を浮かせて、俺は眉をひそめた。何かを下敷きにしたらしいが、昨夜はスマホも充電器も枕元に置いたはずだ。それに、今出た声は妙に高かった。寝起きで喉がおかしいのかと思って咳払いをしてみても、聞こえるのは知らない女の子のような声だった。
嫌な感じがして、枕元へ手を伸ばした。いつもなら簡単に届くスマホに、指が届かない。身体をずらしながら目を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝日に、自分の手が照らされていた。
その手は、見慣れたものよりひと回り小さかった。指を開いたり握ったりしてみても、俺の思ったとおりに動く。爪の形まで違うのに、他人の手を見ているという感じはしなかった。
「……なんだこれ」
声を確かめるように呟いてから起き上がると、また尻が痛んだ。慌てて腰を浮かせた拍子に、布団の中で何かがするりと動く。虫にしては大きすぎる感触だった。俺は息を止めて、そっと布団をめくった。
シーツの上には、ふさふさしたしっぽが横たわっていた。根元から豊かに毛が広がり、先へいくほど細くなる、動物の写真で見た狐のしっぽにそっくりなものだ。それが、ずり下がったスウェットの腰の隙間から出ている。
しばらく眺めたあと、おそるおそる手を伸ばした。毛は柔らかく、指を沈めると、その奥に温かい感触があった。軽く挟んでみたところで、腰の後ろがぞわりとする。
触った指とは別に、触られたほうの感覚がある。腕や脚ほど馴染みはないが、どのあたりを触られたかは分かった。
「待て。これ、俺のなのか?」
返事があるはずもないのに、しっぽへ問いかけてしまった。確かめるために引っ張ろうかとも思ったが、下敷きにしただけであれだけ痛んだのだ。これ以上ひどい目に遭うのは避けたかった。
しっぽを手で脇へよけ、ベッドの縁へ足を下ろすと、今度は床が少し遠く感じられた。Tシャツの袖から出ている腕も細く、裾は膝近くまで垂れている。見たことのない脚に目を落とし、首元からシャツの中も少しだけ確かめて、俺はすぐに手を離した。
布団の中で考えていても、どうにもならない。スウェットを引き上げながら立ち、いつもより頼りない足取りで洗面所へ向かった。
鏡の中には、寝癖のついた女の子がいた。
右手を上げれば、向こうも同じように手を上げる。顔に見覚えはないのに、困って眉を寄せる癖だけは自分のものだった。思わず口を開けると、鏡の女の子まで間抜けな顔になった。
頬にかかった髪を払おうとして、指が頭の上の何かに触れた。鏡を見ながら手を動かすと、それは毛に覆われた、先の尖った三角の耳だった。反対側にも同じものがあり、しっぽと合わせて見ると、ますます狐らしい。
「そこにもあるのかよ……」
耳の先を撫でると、ぴくりと動いて指から逃げた。触った俺まで肩を跳ねさせてしまい、鏡の前でひとり、妙な追いかけっこをすることになった。
もう一度触ろうとした手を下ろし、洗面台に両手をついた。身体は女の子で、頭には狐耳があり、腰の後ろにはしっぽまで生えている。どこから考えればいいのか、さっぱり分からなかった。
鏡の下には、昨日開けた歯磨き粉が置いてある。洗濯機の上の靴下も、昨夜脱いでそのままにした位置にあった。周りが何も変わっていないせいで、自分だけがおかしくなったことを、どうしても意識してしまう。
昨夜は大学から帰って冷凍うどんを食べ、課題の資料を読んだ。途中で動画を見始めてしまったが、日付が変わる前には風呂にも入った。怪しい薬を飲んだ覚えも、何かに願い事をした覚えもない。
夢の可能性にすがって頬をつねると、しっかり痛かった。鏡の女の子が涙目になったのを見て、俺は指を離した。これで目が覚めるなら、さっきしっぽを潰した時点で起きているはずだった。
*
部屋へ戻ってスマホを確かめると、九時二十一分だった。一限は九時からなので、今から支度をしても遅刻になる。もっとも、この姿で講義室に入る方法のほうが、時間よりよほど大きな問題だった。
講義の連絡先を開き、『体調不良のため、本日の講義を欠席します』と打って送る。少なくとも平常ではないのだから、嘘ではないだろう。
次に連絡先の一覧を開いたが、母さんや友達の名前を眺めているうちに、親指が止まった。誰かに相談したほうがいいとは思う。けれど、この声で電話をかけたら、まず誰なのかを聞かれるはずだ。
俺だと答えたあと、何を言えばいいのだろう。朝起きたら女になって、狐耳としっぽまで生えていた。頭の中で何度言い直しても、ふざけているようにしか聞こえなかった。
代わりに検索欄へ『朝起きたら女になった』と入れると、小説や漫画が並んだ。昨日までなら俺もそのつもりで読んだだろうから、文句を言う気にはなれない。ただ、今知りたいことは見つからなかった。
近所の病院も調べてみたものの、保険証にある自分の名前を見て、また迷った。受付で本人だと説明できるだろうか。顔も声も違う人間が、しっぽを抱えてやってくるのだ。まず電話で聞くにしても、ひとりで説明する自信がなかった。
結局、大学の友達へメッセージを送ることにした。
『今日休む。ちょっと困ったことになってる。あとで相談していい?』
返事を待つ間に腹が鳴り、朝から何も食べていないことを思い出した。こんな状況でも空腹にはなるらしい。スマホを机へ置き、ひとまず台所へ向かった。
冷蔵庫には卵が二つと半分残った牛乳があり、冷凍庫には食パンもあった。パンをトースターに入れ、フライパンを火にかけてから卵を取りに振り向くと、背後で何かが倒れる音がした。
ゴミ箱が床に転がり、その上に俺のしっぽの先が乗っていた。どうやら身体をひねったとき、一緒に振れたしっぽがぶつかったらしい。
「お前か……」
まだ自分の身体の一部だという実感が薄くて、つい別の生き物に話しかけるような口調になる。ゴミ箱を起こしてティッシュを拾い、今度はしっぽを脚に沿わせながら卵を割った。落ち着かない気分のまま焼いたせいか、目玉焼きの端は少し焦げてしまった。
朝食を机へ運んで椅子に腰を下ろしたところで、また声が出た。
「いっ!」
尻を浮かせ、背もたれから離れる。寝起きに痛い目を見たばかりなのに、しっぽを挟んでしまった。痛む根元をかばいながら椅子を見ると、座面と背もたれの間には隙間がある。そこへ通せばよさそうだが、普段どおりに座っただけでは、うまく収まってくれない。
しっぽを手で持ち上げて横へ逃がし、ゆっくり腰を下ろすと、今度は痛くなかった。ようやく朝食にありつけると思って牛乳へ手を伸ばしたが、床を擦る音がして、すぐにコップを置いた。
昨日、掃除をしていない。毛に埃がつくのが嫌でしっぽを膝へ乗せると、今度は皿との間が窮屈になった。朝食ひとつで、こんなに座り直すことになるとは思わなかった。
「……どうすんだ、これ」
食パンをかじりながら、毛についたパンくずを摘まむ。この身体で暮らすには、床をこまめに掃除するところから始める必要がありそうだった。
食べ終わる頃、スマホに友達からの返事が届いた。
『昼なら電話できる。急ぎ?』
時刻は十時を少し過ぎていた。少なくとも、今すぐ倒れそうな感じはない。昼までに、話すことを少し整理しておきたかった。
『昼で大丈夫。写真見せると思う。変でも引かないでくれ』
『何したんだよ』
俺にも分からない、と返してスマホを置く。椅子から立つ前に、今度は忘れずにしっぽを持ち上げた。
*
食器を洗って床を軽く掃除した頃には、ひどく眠くなっていた。朝から考えることが多すぎたせいか、頭も重い。昼の電話まで少し寝ようとベッドへ戻ったが、仰向けになるとしっぽの根元が邪魔だった。
横向きなら痛くないものの、今度はしっぽの置き場所に困る。脚の間に挟むと寝返りが怖いし、後ろへ逃がすとベッドから垂れてしまう。もう一つ枕があれば支えられるのかもしれないが、試せるものが手元になかった。
しっぽを抱えたままスマホでクッションを調べているうちに、以前見た家具作りの動画が目に入った。その人は、今日は生配信で机を組み立てていた。取りつける部品の向きを視聴者に聞き、コメントで間違いを指摘されると、照れたように笑いながらひっくり返している。
作業はゆっくりだったが、ひとりで悩むより楽しそうに見えた。俺も画面を見ながら、いつの間にかコメントの助言を一緒に読んでいた。
そういえば、通話用のカメラを買ったとき、友達から配信にも使えると言われたことがある。見るために登録したアカウントも残っている。こんな相談をするのは変だろうかと思いながらも、寝具の検索ばかり続ける気にはなれなかった。
机へ戻って配信の設定を調べ、カメラをつなぐと、画面に今の俺が映った。知らない女の子が見慣れた部屋に座っているのを見るのは、鏡とはまた違う落ち着かなさがあった。
顔を映すのはやめよう。カメラを下へ傾けて机の端と膝だけが入るようにし、映り込みそうな大学の封筒を引き出しへしまった。それからしっぽを膝に乗せると、画面の中にもふさふさした毛が広がった。
これなら、衣装の一部だと思われるかもしれない。正体をどこまで話すかは、まだ決められなかった。
開始ボタンへ指を置いてから、俺はもう一度ためらった。女になってしまったことを、見ず知らずの相手に相談したいわけではない。それは昼に友達へ話すつもりだ。今は、椅子に座るたびに痛い思いをするのを、どうにかしたかった。
それでも、話せば声は聞かれる。試しに「こんにちは」と言ってみると、朝から何度も聞いたはずの声に、また戸惑った。少し低く言い直しても、昨日の俺にはならない。顔を映さないだけで、前のまま話せるわけではなかった。
タイトルの欄へ、『しっぽがある場合、椅子にはどう座ればいいですか』と入力した。自分で読んでも妙な質問だったが、ほかにうまい言い方は浮かばなかった。
配信を始めても、しばらく視聴者はゼロのままだった。カメラの角度を直したり、毛に残っていたパンくずを取ったりしていると、ようやく数字が一になった。
『何これ』
画面に現れた最初のコメントを見て、俺はマイクへ少し近づいた。
「俺も、それを知りたいんですけど……とりあえず、座ると挟むんです。これ」
膝の上のしっぽを持ち上げ、根元を潰さないよう椅子へ座り直す。朝から誰かに聞いてほしかった話を口にしたことで、肩の力が少し抜けた。
画面の向こうにいるたったひとりが、何と答えるのか。俺はしっぽをそっと横へ逃がして、次のコメントを待った。




