第26話 一緒に選んだ、明日の帽子
喫茶店で飲み物を飲むうちに、雨待ちと顔を見て話すことにも慣れてきた。
「今日は、いいのがなくても、押される形だけ覚えて帰りましょう」
俺が言うと、雨待ちは帽子を持ち直す。
「でも、一個くらい、選べたら嬉しいです」
「それは俺も思ってます」
俺は残りの飲み物を飲み、雨待ちもカップを置く。
帽子をかぶり直すと、立っていた耳が布の中へ隠れる。彼女は右側を一度直し、これが楽になったらいいんですけど、と言う。
それを見て、俺も鞄を持って立ち上がった。
会計はそれぞれの分を払った。店を出て案内板を見直し、三階へ上がるエスカレーターへ向かう。通路では並んで歩けたが、乗り口の前では俺がしっぽを抱え直すために一度止まる。
雨待ちは先へ乗らず、横で待っている。
「すみません。階段の端で引っかけたくなくて」
「大丈夫です。私も帽子、直します」
二人で支度を終えてから、俺が先に乗った。雨待ちは一段後ろに立つ。
三階へ着くと、右手の店の奥に帽子が並んでいるのが見える。入口へ近づきながら、雨待ちが、小さくないのもありますね、と棚を指した。
*
帽子の店では、最初に雨待ちが一つ選んだ。
今のものより柔らかそうな生地で、頭の上に丸く膨らみがある。かぶって鏡へ向くと、片方の耳のところだけ、布が持ち上がった。
彼女は笑いかけ、すぐ帽子を外す。
「見た目は、好きなんですけど」
「右、近いですか」
「はい。かぶった瞬間から」
彼女が外した帽子を戻し、俺は隣の棚から、もう少し上の部分が広そうなものを取る。
渡す前に内側を見てみると、頭を通すところには伸びない帯がついている。雨待ちもそれを見て、かぶるときに耳を折らないと入りませんね、と首を振る。
棚へ戻し、次は柔らかいものを探す。今度は入口を通ったが、布を少し触っただけで、内側に当たるという。
「これ、外から見ると、さっきより広いですよね」
「はい。でも、この辺が戻ってくる感じで」
雨待ちが帽子の側面を押すと、生地が元の形へ戻った。形を保つために、思っていたより硬く作られているらしい。
俺は昨夜の配信を思い出した。布に余裕があっても、それだけでは決まらない。タオルを入れたときには分からなかった違いが、試すたびに出てきた。
雨待ちが二つ目に試した帽子を戻したところで、店員が声をかけてきた。
「サイズをお探しですか。それとも、形のほうでしょうか」
店員は、髪を後ろでまとめた女性だ。
さっきから俺たちがかぶっては外しているのを見ていたらしい。雨待ちは帽子を胸の前で持ち、一度、俺へ目を向ける。
俺は勝手に答えず、隣で待った。
「頭の上に、押さえたくないところがあって。内側が広いものを探してます」
雨待ちが耳へ指を近づけると、店員の目が一瞬止まる。
俺の耳へも視線が来たが、すぐ、いま試されたものは横が細めですね、と手元の帽子を見てくれた。
「同じように膨らんでいても、こちらは横へ広がります。入口は調整できますので、少し緩めてみましょうか」
店員が持ってきたのは、短いつばのある帽子だ。
上の布にはゆとりがあり、縫い合わせたところから左右へふくらんでいる。雨待ちは受け取り、俺に見えるよう、先に内側を開く。
さっきの帽子より、耳が入る辺りが広い。
彼女がかぶり、鏡へ向いた。
片耳だけを押し直す手が、今度は出なかった。
「どうですか」
「……当たってはいます。でも、曲がってないです」
雨待ちは顔を右へ向け、左へ向ける。それから、目だけをこちらへ動かす。
「変じゃないですか」
俺は帽子より、彼女の顔を見る。
さっきまで、押されているところを気にして鏡へ近づいていた。今は、全体がどう見えるかを確かめている。
「似合ってます」
答えると、雨待ちが少し目を伏せた。
帽子の上が、ほんのわずかに動く。俺にも分かるくらいだった。
「今、耳、動きました?」
「言わないでください」
昨日の配信で俺が言ったことに、よく似ていた。
笑っていると、店員も口元を緩める。俺のしっぽが通路へ出かけていたので、慌てて前へ抱える。
「そちらの方も、かぶってみますか」
「俺は、ちょっと高さが」
雨待ちが帽子を外し、どうぞと渡してきた。
俺は断りかけたが、せっかくなので持ってみた。耳の上へそっと載せると、頭まで下りる前に止まる。
鏡の中では、帽子が耳の上に乗っている。
「……俺は、この使い方になりますね」
雨待ちが吹き出し、すみませんと言いながら顔を横へ向ける。
俺も笑って帽子を外す。無理に下へ引く気にはならなかったが、これで分かる。同じ帽子を二人分買えば済む話ではない。
「よろしければ、もう少しかぶったまま、見ていかれませんか。少しすると、違って感じることもありますので」
店員に言われ、雨待ちは俺から帽子を受け取って、もう一度かぶる。
今度は鏡の前を離れ、隣の棚を見る。俺も横について、色違いを指した。仕事に使うなら、今かぶっている色が合わせやすいという。俺は、そういう選び方もあるのだと頷く。
彼女は財布の中を確かめ、値札を見直す。いつも使っているものと、値段はそれほど変わらないらしい。
十分近く店にいた間に、一度だけ、雨待ちは帽子の位置をずらした。俺が耳へ当たったのかと聞くと、少し後ろへ寄ったので戻したと答える。
「いつものだったら、もう二、三回直してると思います」
彼女は鏡へ戻り、帽子を外す。
右の耳へ指を添え、毛の向きを確かめる。最初に外したときほど、片方だけが寝てはいなかった。
「仕事で一日かぶれるかは、まだ分からないです」
彼女は鏡の前で言い、少し考えてから、帽子を外す。
「でも、これ、買ってみます。いつものと同じ値段くらいだし、見た目も好きなので」
自分で決めた声だった。
俺は、いいと思いますと答え、彼女が会計する間、店員へ礼を言う。帽子を作ってもらったわけではない。でも、どこが違うのかを一緒に見てもらえたのが、助かった。
*
店を出ると、雨待ちは元の帽子を鞄へ入れ、新しく買ったほうをかぶる。
耳の形は布の下で少し分かる。それでも、鏡の前で見ていたときより、歩き出す足が軽そうだった。
「買えましたね」
「はい」
彼女はそれだけ言ってから、俺を見る。
「一人で来たら、最初の二つで帰ってたと思います」
「俺も、前の帽子が駄目だったので、全部駄目だと思ってました」
俺たちは店の前の通路を離れ、エスカレーターの脇まで歩く。
そこに置かれた案内板には、二階の飲食店も載っている。壁の時計を見ると、もう昼を少し過ぎている。
帽子を選ぶという予定は終わる。帰るなら、このまま一階へ下りて駅へ向かえばいい。
俺が雨待ちへ向き直ると、彼女も案内板を見ている。
「お昼、もう食べました?」
雨待ちに聞かれ、俺は首を振った。
彼女は飲食店の案内を指し、よかったら、と言う。
「今度は、帽子の話じゃなくても」
俺は案内を見てから、しっぽを抱え直す。
座れる席かは見てみないと分からない。けれど、それだけの理由で、ここで帰ることもなかった。
「食べましょう。俺、朝からパンだけだったので」
雨待ちが笑い、俺たちはエスカレーターで二階へ下りた。
案内板にあった店をいくつか覗く。固定された長い椅子の店は避け、普通の椅子が並ぶ店の入口で、席を見せてもらった。壁際に二人で座れるところがあり、俺の横へしっぽを回す余裕もありそうだった。
案内してもらい、俺が椅子を少し引く間、雨待ちは向かいでメニューを開く。
「何を食べたいですか」
「さっきパンだけって言いましたけど、今日はご飯がいいです」
「じゃあ、これどうですか。私も、これにしようかなって」
彼女が指したのは、焼いた肉と野菜の定食だった。俺は写真を見て頷き、二人で同じものを頼んだ。
注文を済ませると、雨待ちは帽子を外して、空いている隣の席へ置く。
「食べてるときは、取っててもいいですよね」
「さっきも取ってましたし。俺、かぶったままだと、汁物のぞくとき前が落ちてきます」
「それ、私もやりました。家で、お椀へつばが入りそうになって」
彼女が笑ったので、俺も、そういうことは先に教えてほしかったです、と返す。
帽子の話から、仕事の日に何を食べるかの話になった。雨待ちは、昼休みによく行く弁当屋があり、出遅れると好きなものが売り切れるという。
「だから、午前の仕事を早めに終わらせたいんです」
「俺の友達も、講義のあと食堂へ行くときだけは、片づけるの速いです」
「瀬川さんは?」
「俺は急いで鞄詰めると、何か忘れます」
話しているうちに、料理が届く。
湯気の上がる味噌汁を避けて箸を取り、ひと口食べる。思っていたより腹が減っていたらしく、俺が続けて食べるのを見て、雨待ちが、入ってよかったですね、と言う。
俺は口の中のものを飲み込んでから頷く。
食べながら、大学で一緒に昼飯を食べる三浦と黒田のことを話す。雨待ちは、職場で弁当を頼む人が増えると、受け取る順番を間違えそうになる話をした。
彼女の話を聞くたびに耳のことへ戻さなくても、会話は続いた。俺も、うまく説明しなければと思わずに、自分の話をできている。
定食の皿が空になる頃には、最初に店の入口で声をかけられたときの緊張は、ほとんどなくなっている。
店を出たあと、二人で駅へ向かった。
人の多い通路では雨待ちが半歩前へ出て、少し空いたところで、また横へ並ぶ。俺はしっぽを抱えながら、行きもこうして歩けていたら楽だったかもしれないと思った。
改札の手前で、彼女がスマホの時刻を確かめる。乗る電車のホームは、俺とは反対の方向だった。
ここで別れることになり、雨待ちは新しい帽子をもう一度直す。
「今度、これで仕事に行ってみます。どうだったか、連絡しますね」
「はい。駄目なところがあったら、また考えましょう」
俺が答えると、彼女は頷き、それから続ける。
「あと、またご飯、食べに行きたいです」
俺は一度、返事に詰まった。
同じ変化の人に会えた。帽子も選べた。今日は、それだけで十分だと思っていた。
その先の約束を、相手からもらえるとは思っていなかった。
「俺もです」
言うと、しっぽの先が腕の中から出た。
雨待ちは今度、それについて何も言わなかった。ただ少し笑って、また連絡します、と手を振った。
帰りの電車へ乗る前に、三浦へメッセージを送る。
『帽子、一個買えた。俺は入らなかった』
すぐに、二人分買わなくて済んだな、と返ってきた。
俺は笑い、昼飯も一緒に食べたことを伝える。今度は、よかったな、という短い返事だった。
糸日和にも、助言のおかげで店で比べられたと送る。
買った帽子の写真を見せていいかは、雨待ちにあとで聞こうと思った。俺が話せるのは、今日、形を比べて違いが分かったことと、俺には同じものが合わなかったことだ。
電車では、窓際の空いた席に座れた。
しっぽを膝へ収め、鞄を抱える。向かいの窓に、フードをかぶった自分が映っている。今日はその横に、帽子を直す人がずっといた。その人が別の電車へ乗ったあとで、一人になったことを、少し遅れて感じる。
帰りの時間は、待ち合わせへ向かうときより長く思える。
家に着くと、靴を脱ぎ、まず水を飲んだ。
鞄を机の脇へ置いて、しっぽの台の位置を戻す。いつもの椅子へ座ってから、糸日和に送った報告を読み直す。
店でどう違ったかは、昨日一緒に考えてくれた人たちにも伝えられる。俺は配信で使った図を出し、今日試した帽子の形を、横に簡単に描いた。
図の下へ、文章を書き足す。
『今日、実際に店で比べてきました。かぶれるものが一つ見つかりました。耳の形が違うと、同じ帽子でも合いません。俺の分は、まだです』
SNSへ載せると、パンのみみから、おめでとうございます、と来る。
俺の帽子ではないのに、俺へ届く。少し変な感じだったが、嬉しかったので、そのままありがとうございますと返す。
雨待ちからも、帰宅したと届く。
その次の文章には、新しい帽子を玄関へ置いたので、明日は古いほうを何度もかぶり直さずに済みそうだ、とあった。
俺はその言葉を読んで、鞄から財布を出す手を止めた。
元に戻したわけでも、すごい能力を使ったわけでもない。一緒に店へ行って、似合うと言って、昼飯を食べた。
それでも、誰かの明日の出かけ方が、少し変わった。
俺のほうも変わっていた。
次は、用事がなくても会いに行きたい。
また会ってご飯を食べたい人が、今日、一人増えたのだった。




