第21話 その声が、聞こえた
朝、SNSを開くと、しっぽの写真に返事が増えている。
糸日和は、クッションの置き方が文章より分かりやすいと書いてくれた。パンのみみからは、配信で見た台がこれですね、と来ている。ねじまきは『ちゃんと席が残ってる』とだけ書いている。
知らない名前からの反応も、二つあった。
片方は写真を紹介してくれていて、もう片方は、毛の量がすごい、触ったら気持ちよさそう、と書いている。
俺は写真を見直す。
台の高さや、椅子との距離が分かるように撮ったつもりだった。確かに分かるが、画面のかなりの部分をしっぽが占めている。
大槻にもふわふわだと言われたし、俺がそこを隠しているわけでもない。
その反応に、ありがとうと返す。役に立つ説明だけ読んでもらえればいい、と思っていたのに、写真を気に入ってもらえたことも嬉しかった。
次に載せるなら、鞄の中の図だ。
財布を先に出すことと、買ったものを入れる場所を空けること。紙へ描こうとしていたら、大槻から待ち合わせの確認が来る。
今日は、駅前でノートを借りる約束をしている。
彼女ともう一つ同じ講義を取っていて、俺が欠席した回のノートを見せてもらう。課題については担当の先生にも連絡してあるが、配られた資料だけでは分からない箇所があった。
大槻は大学のあと、駅前の商業施設で買い物をするという。ノートを渡すついでに、一緒に少し店を見ないかと誘われている。
大学へ戻るための用事だが、発表の本番ではない。
買うものがなくても、途中で別れて帰っていい。俺はその約束なら行けそうだと思い、昼飯を食べてから着替えた。
*
待ち合わせの場所へ着くと、大槻は柱の横でスマホを見ている。
俺に気づき、手を上げる。近づく前に、彼女が俺の後ろへ一度目を向ける。
「三浦は一緒じゃないよ」
「うん。今、いつもの癖で探した」
言われて、俺は笑う。
病院も大学も三浦と行ったが、今日は自分で駅まで来た。短い移動なので立っていたものの、改札の前でカードを出し、乗るときにはしっぽを先に抱え直せた。
全部慣れたわけではないが、困る場所が分かっているだけでも違った。
大槻からノートを受け取り、鞄へ入れる。
写し終わったら返すと伝えると、次の講義までに戻ればいいと言われる。俺がその講義へ行けるかは、まだ相談中だったので、無理なら三浦に預けることにした。
「まず、文具見ていい? ペン、なくなりそうで」
大槻に聞かれ、俺は頷く。
商業施設へ入ると、外より音が多かった。店の音楽と案内放送、歩く人の声が重なっている。フードの内側で耳が動いたが、足を止めるほどではなかった。
文具売場で、大槻は同じ種類のペンを何本か並べて色を選んだ。
俺は小さなノートを手に取る。買い物メモはスマホにあるが、図を描くときは紙のほうが楽だった。配信で見せる紙と、大学の課題に使う紙を分けておけるのもいい。
「それ、配信の?」
「そう。鞄の中、今度は図にしようと思って」
「布巾が滑るところも?」
俺は彼女の顔を見る。
「そこ、そんなに覚えてる?」
「分かりやすかったよ。あと、ありがとうって言うとしっぽが動くのも」
「そっちは、図にしない」
大槻が笑う。俺も笑い、小さなノートを買った。
財布を出す前に、しっぽを腕の中へ収め直す。レジの店員が一度目を向けたが、会計は普通に終わる。
売場を出たところで、案内放送が流れた。
迷子のお知らせだった。小さな女の子を捜しているという。黄色い上着と、うさぎの形のポシェット。
大槻が周りへ目を向け、俺も通路を見る。家族連れは何組かいるが、その服の子は近くにはいなかった。
「次、本屋も寄る?」
大槻に聞かれ、俺は返事をしようとした。
その前に、耳が左へ向いた。
細く、息を吸うような音がした。
咳とも違う。少し止まって、また続く。子どもが泣くのを堪えているときのような音だった。
俺は左側の通路を見たが、歩いているのは大人ばかりだった。
「今、泣いてなかった?」
「子ども?」
大槻も顔を向ける。
店内放送が終わり、近くの店の音楽だけになる。俺は足を止めて聞いたが、今度はカートの車輪の音が通り過ぎ、さっきの細い音が分からなくなった。
「俺には、聞こえた気がする」
「私は聞こえなかった。どっち?」
指そうとして、迷う。
左だと思った。でも、店の入口が並び、通路の先にはエスカレーターがある。壁に返ってくる音も混じっていて、どの店の奥なのかまでは分からなかった。
耳が動いた方向へ歩けば、必ず見つかるわけではないらしい。
俺はもう一度、立ち止まる。
呼び込みの声や音楽を全部聞こうとすると、かえってさっきの音が埋もれる。短い息の間隔を思い出し、そこへ気を向ける。
少しして、また聞こえる。
「いると思う。さっきのお知らせの子かは分かんないけど」
大槻は俺の顔を見てから、近くの案内カウンターを指した。
「係の人に言おう」
俺は頷く。自分たちだけで探し始めるより、今捜している人へ伝えたほうがよかった。
*
カウンターには、制服を着た女性の係員がいた。
大槻が迷子の放送のことを話し、俺が聞こえた音を説明した。係員は俺のフードと腕へ目を向けたが、先にどの辺りかを尋ねた。
「本屋のある通路のほうです。でも、姿は見えてなくて」
「ご案内いただけますか」
係員は無線で短く連絡し、カウンターの中の別の人へ声をかける。
俺たちは三人で、さっきの場所へ戻る。
歩き始めると、足音や話す声で、細い泣き声が聞き取りにくくなった。
俺は係員へ少し待ってもらい、通路の端で止まる。しっぽを抱える腕を緩め、顔だけを向ける。
大槻も黙って隣へ立つ。
音がした。
さっきより、途切れる間隔が短い。本屋の入口の手前に立つと、少しはっきりした気がする。
「こっちだと思います」
係員が先に店へ入り、店員へ事情を話す。
俺は入口で立ち止まる。入ってすぐの棚の向こうから、今度は小さな声が聞こえる。
「……まま」
身体が先にそちらを向いた。
棚の高さで見えない場所に、誰かいる。係員へ声がしたと伝え、間を通っていく。絵本の棚の横に低いベンチがあり、その端と壁の間へ、黄色い上着の子が座り込んでいる。
胸の前には、うさぎのポシェットがあった。
「いた」
俺が声を出すと、女の子が顔を上げる。
頬が濡れている。係員が少し手前でしゃがみ、名前を聞く。子どもは口を動かしたが、しゃくり上げて声にならなかった。
俺も少し離れて腰を落とす。
しっぽを抱えているので、しゃがむ姿勢が窮屈だった。大槻が横から鞄を受け取ってくれて、俺はようやく片手を空けられた。
女の子の視線が、そのとき俺の腕へ移った。
「きつね」
泣き声の間から、それだけ聞こえる。
俺は少し迷い、頷く。
「耳としっぽ、あるよ」
フードの端を少し下げると、女の子が俺の頭を見る。鼻をすすりながら、両手を自分の頭の上へ持っていく。
耳を作っているのだと分かり、俺は笑う。
「そう。そこ」
声をかけたら、彼女の息が少し落ち着いた。
係員がもう一度名前を聞く。今度は、小さいが言葉になった。その名前を無線へ伝える声を聞きながら、俺はしっぽの先を膝の上へ置く。
子どもは本を見ている間に母親が見えなくなり、捜そうとして店の中を歩いたらしい。その先はまだうまく話せなかったが、係員は急いで聞き出そうとはしなかった。
俺たちはベンチのそばで待つことになった。
女の子が、俺のしっぽへ手を伸ばす。
「毛のところだけなら、ちょっと触っていいよ。引っ張らないでね」
俺が言うと、彼女は手のひらを開く。
先のほうへそっと触れ、すぐ手を引っ込める。それからもう一度、指先で撫でた。
「ふわふわ」
「よく言われる」
答えると、大槻が横で笑う。
ほんの少し前まで、誰かに触られるのは慣れないからと断っていた。今も根元のほうを触られるのは落ち着かない。でも、自分で場所を決めて、子どもがそっと触れるのを待つことはできた。
係員へ連絡が入り、母親がこちらへ来ると分かる。
その頃には、俺の膝が少しつらくなっている。大槻へ小声で伝えると、彼女は店員に声をかけ、ベンチの上の本を一箇所へ寄せてもらった。
俺はしっぽを前へ回し、端へ浅く座る。
「ありがとう」
大槻へ言うと、女の子が俺の腕を見る。
「うごいた」
しっぽが少し揺れていた。大槻が口元を押さえ、俺は、今日はそれはいいから、と目で訴えた。
*
母親は、通路のほうから足早に来る。
灰色の上着を着た女性だった。女の子の名前を呼び、ベンチのそばへしゃがむ。子どもが立ち上がって腕へ飛び込むと、女性はしばらく背中を撫でていた。
係員が本人確認をしている間、俺と大槻は少し横へ避ける。
母親は何度も謝り、それから係員へ礼を言う。
女性がこちらを見る前に、係員が俺を示す。
「こちらの方が、泣いている声に気づいて知らせてくださいました」
母親の目が、耳としっぽへ止まる。
またどう説明するか考えたが、彼女はそこから俺の顔へ目を戻す。
「見つけてくださって、ありがとうございました」
俺は首を振った。
「声が聞こえただけで。場所は、すぐには分からなかったので」
係員と大槻も一緒に探したと話す。母親は二人にも礼を言う。
女の子が母親の腕の中から顔を上げ、俺を指した。
「きつねのおねえちゃん」
俺は返事をする前に、一瞬固まった。
大槻を見ると、笑いを堪えているのが分かる。けれど、女の子の顔へ戻ると、俺も笑ってしまった。
「もう、ママの手、離さないでね」
彼女は頷き、母親の指を握る。
女性がもう一度頭を下げ、二人で店の外へ向かう。女の子は途中で振り返り、空いた手を振った。
俺も右手を上げる。
絵本の棚の前にいた人が、母親へよかったですねと声をかける。別の人も、俺と目が合うと小さく会釈した。
しっぽへ視線が集まっているのは分かる。けれど、さっきまでとは少し違う気がした。
俺は係員から、改めてありがとうございましたと言われ、こちらこそ、と答えかける。
何がこちらこそなのか分からず、代わりに、見つかってよかったですと言う。
*
店を出てから、大槻と通路脇のベンチへ座る。
彼女が持っていた鞄を返してくれる。俺は水を飲み、フードを整える。
探しているときは気にならなかったのに、今は店の音楽と放送が耳に残っている。聞こうとするのをやめ、ボトルの冷たさへ気を向ける。
「さっきの声、私は店に入るまで分からなかった」
大槻が言う。
「係の人も、場所が見えてから気づいてたね」
「俺、最初は左からだと思った。けど、本屋まで来ないと分かんなかった」
言いながら、何ができたのか考える。
遠くにいる人の声を、何でも聞き分けられたわけではない。音が重なると途切れたし、方向も一度で分からなかった。
それでも、大槻には聞こえていなかった泣き声へ、俺は気づいた。
「この耳のせいなのかな」
俺はフード越しに、耳の横へ指を当てた。
風で毛が動くことも、電車の音へ反応して驚くことも、発表の途中で行を見失ったことも思い出す。
今日だけ、同じように気を取られたあと、誰かを見つけられた。
「理由は、まだ分からないけど」
大槻は俺の指先を見てから、顔を見る。
「聞こえたから、知らせられたんだよね。今日は、それでよかったと思う」
俺は頷く。
何か特別なことができると、今すぐ決めるつもりはなかった。けれど、助かったと言ってもらったことまで、小さく言い直す必要もなかった。
「おねえちゃんって言われるとは思わなかった」
大槻がとうとう笑う。
「あの子から見たら、そうだよ」
「分かる。分かるけど、返事するまで一回考えた」
「しっぽ触っていいって言ったとき、すごい優しい声だったよ」
俺はボトルの蓋を閉める。
そんなつもりで声を変えた覚えはなかった。泣いている子に、普段どおりの調子で話すわけにもいかなかっただけだ。
それでも、大槻に言われると、あの場面を見られていたことが急に恥ずかしくなった。
「次の配信で、そこは言わないでな」
「こはるとして見に行くから、書かないよ」
名前を言われ、俺は笑う。
彼女は鞄からノートを一冊出し、さっき借りた講義ノートで分かりにくいところを、今のうちに示してくれた。余白に書かれた矢印の意味を聞く。
少し話しているうち、耳に残っていた音が落ち着いた。
そのあと俺は帰ることにした。
大槻にはまだ買い物が残っていたので、エスカレーターの手前で別れた。彼女は歩き出す前に、また一緒に店を見ようと言う。
俺は、今度は本も見る、と答える。今日は本屋へ入ったが、本の背表紙を一つも読んでいなかった。
*
帰りの電車で座れたので、しっぽを膝へ回す。
鞄は小さく、借りたノートも机の書類ほどかさばらない。腕へ掛けたまま、しっぽと重ならない位置へ寄せられた。
買った小さなノートを出そうとして、片手ではうまく開けなかったので、今日はスマホへ書く。
『音が多い場所で、子どもの泣き声に気づいた』
これは配信のメモではなく、病院で話すための記録だった。
大槻には最初は聞こえなかったこと。俺にも方向ははっきりせず、近づいてから分かったこと。探し終えたあと、少し音が気になったこと。
次の受診で伝えたいと思い、一つずつ残す。
部屋へ戻り、靴を脱いでから大槻へ帰ったと送る。
鞄から借りたノートと、自分で買った小さなノートを出す。手を洗い、部屋着へ着替えて座ると、しっぽを台へ載せる動作が、今日は少しだけ違って感じられた。
机の上で、SNSの通知が増えていた。
朝の写真に、また反応がついている。俺はありがとうと返してから、次の投稿の下書きを開く。
鞄の図を描くつもりだったが、まず別の一文を書く。
『今日は外で、迷子の子を見つけるお手伝いができました』
場所や子どもの服、名前は書かなかった。
泣き声に気づいたので係の人へ知らせ、一緒に探して、保護者と会えたことだけを続ける。特別な能力があると宣言するのは、まだ早かった。
最後に、見つかってよかったです、と書く。
投稿する前に、大槻へ文章を送る。これくらいなら今日のことを話しても大丈夫そうかと聞くと、場所も相手も分からないし、よいと思うと返ってきた。
俺は投稿した。
それから小さなノートを開き、本来載せるつもりだった鞄の図を描き始める。
少しして、SNSへ返事が来た。
糸日和から、よかったね、お疲れさま、と書かれている。続いてパンのみみからも、無事に会えてよかったです、と来た。
ねじまきは『今日はちゃんと帰って休んで』と返していた。
俺はもう帰ってますと書き、机の横を見た。
耳もしっぽも、まだある。明日、服を着るときにも、電車へ乗るときにも、たぶんまた困る。
でも、あの子に手を振ったときには、どちらも隠したくならなかった。
ノートの隅へ、今日できたことを一行書いてから、俺は夕飯の支度に立った。




