第18話 俺の担当、俺が話します
水野さんから返事が来たのは、三人が部屋へ来た翌朝だった。
希望していた日の午後に、学生相談窓口の近くの小さな部屋を使えるという。まずそこで座り方を確かめ、三浦たちと発表の練習をすることになった。
四人で取り組んでいるのは、同じ講義で出されたグループ発表の課題だ。普段から全ての講義を一緒に受けているわけではない。黒田とは別の講義でも顔を合わせるが、大槻と予定を合わせるのは、この課題の打ち合わせが中心だった。
発表を行う次回の講義には、自分の担当だけでも参加できないか。俺は部屋を借りる相談とは別に、担当の先生へもメールを送っていた。その返事も届いていて、練習の終わる頃に少し時間を取ってもらえることになった。
俺は文章を二度読み、利用する時間を確かめる。
明日、大学へ行く。
メールを送ったときには、自分から決めたことだった。それでも、行ける場所と時刻が書かれると、もう一度怖くなった。
校門を通ったあとで帰りたくなったらどうするか。知っている人に会ったら、何と言うか。頭の中で順番に考え始め、最後には、誰にも会わずに済む道を探そうとしている。
大学へ行くのに、それは無理だろうと思った。
三浦へ返事を転送すると、まず待ち合わせを決めようと来る。
四人の打ち合わせ用のグループチャットへ予定を送ると、黒田と大槻も了解と返してくれた。黒田は別の講義が終わってから、大槻は空き時間に来るという。話は待ち合わせの時刻と、持っていく資料へ移っていく。
俺は画面を見ながら、鞄へ入れるものをメモした。怖いままでも、その部分なら準備できた。
その日の昼、注文していたTシャツが届く。
受け取った袋を机で開き、今ある一枚と重ねてみる。袖と裾の位置は少し違うが、着ると腰の後ろまで覆えた。腕を上げ、椅子へ座り、立ち上がって確かめる。
しっぽを押さえつけるところはなかった。
タグを外してから、今着ていた一枚を洗濯へ回す。乾くまで以前の大きな服へ戻らなくていい。それだけなのに、明日の準備から一つ気になることが減る。
母さんへ、服が届いて着られたことと、大学で発表の練習をすることを伝える。電話でいくつか聞かれたが、今度は三浦だけでなく黒田と大槻も一緒だと答えられる。
「途中で疲れたら、ちゃんと言ってね」
「うん。練習だけだから。発表の日の講義に出るかは、まだ決めてない」
そのときは、本当にそう思っていた。
*
十日目の午後、俺は三浦と大学の門の前にいた。
ここまでの電車では、乗る前に鞄を預けた。前回、席へ座ってから何度も渡し直したことを覚えていたので、今日は最初から頼んだ。
楽になったところはある。けれど、大学が見えた途端、抱えたしっぽへ指が沈んだ。
門のそばには、学生が何人もいた。
自転車を押す人も、スマホを見ながら歩く人もいる。その間を通って建物へ向かう道は、前に何度も使っていた。
俺が変わったからといって、大学まで変わるわけではなかった。そのことが、今日は少し意地悪に感じる。
「水野さんには、着いたって送った」
三浦が言う。俺は頷き、一歩進んだ。
歩き始めたら、立ち止まるより楽だった。しっぽを抱えたまま歩く俺を見て、目を向ける人がいる。誰かの会話が一瞬止まる。俺は入口の案内板へ視線を置き、その前まで歩くことだけ考える。
黒田と大槻は、建物の脇で待っている。
黒田が手を上げる。俺も返そうとして、しっぽを持っているので片手だけ上げる。
「来たな」
「来た。ここまでで、もう帰りたいけど」
「早い。まだ資料開いてない」
黒田が言い、俺は少し笑う。大槻は建物の入口を指し、先に中へ入ろうと言う。
大丈夫かと何度も聞かれるより、そのほうが動けた。
水野さんは窓口の前で迎えてくれた。
画面では話したことがあるが、対面は初めてだった。挨拶してから、俺の腕の中のしっぽを見る。事前に説明してある人でも、そこで一度視線が止まる。
「こちらです。荷物は部屋に置いていただけます」
廊下を歩いて、借りる部屋へ向かう。広くはないが、机の周りに椅子を動かせる余地があった。
水野さんに許可をもらい、空いた椅子を俺の右側へ寄せる。持ってきたタオルを敷き、そこへしっぽを載せる。高さは家の台と同じではなかったが、椅子の位置を少し離すと、根元を引かずに済んだ。
俺は座って息を吐く。
「この形なら、しばらく座れそうです」
水野さんは頷き、部屋を使い終えたら窓口へ声をかけてくださいと伝える。途中で困ったことがあれば、近くにいるので相談できるという。
欠席が続いているほかの講義については、それぞれの担当教員へ相談を進めているところだった。課題を送ればよいものもあれば、出席や試験について改めて確認が必要なものもある。大学へ提出する書類についても、確認が済んだら連絡をもらうことになっている。
水野さんが出ていくと、黒田はノートパソコンを開く。
「じゃあ、最初から一回通すか」
俺は鞄から資料を出す。もう、大学の中にいた。
*
最初の練習では、俺のところで止まる。
原稿を読むだけなら家でもできた。けれど、前の人の説明を受けて話し始めると、一文目がうまく出てこなかった。
声が小さくなり、黒田にもう一度と言われる。やり直したら、今度は早口になった。
「この声、前に話すときの感覚が分かんない」
俺は原稿を下ろす。
以前と同じように声を出したつもりでも、響き方が違った。大きくしようとすると、力の入れ方まで考えてしまう。
「今のは聞こえた。速かっただけ」
大槻が言う。三浦も、自分たちのほうを一度見てから話してみたら、と続ける。
俺は原稿へ目を落としたまま、頷く。
顔を上げるのが嫌だった。
誰かが俺を見ている状態で話すと、声が変わったことも、耳があることも、一緒に思い出す。資料に何が書いてあるかより、自分がどう見えるかが先に気になる。
「一回、水飲む」
俺が言うと、黒田が時計を止める。
椅子に座り、水を一口飲む。三浦が資料を見直し、大槻は次のページへ付箋を貼った。誰も、俺が顔を上げなかった理由までは聞かなかった。
少し落ち着いたので、部屋を出て廊下の自動販売機で水を買い足すことにした。
しっぽを腕へ戻し、廊下を数歩進む。その先から学生が一人歩いてきて、俺より先に、部屋の入口へ出た黒田へ声をかける。
「黒田、ここで何してんの?」
同じ講義で見かける顔だった。佐伯という男子学生で、黒田とよく昼飯を食べている。俺も何度かその席へ混ざったことがある。発表の課題は別のグループで取り組んでいる。
「発表の練習」
「へえ。そっちの子も一緒にやってるの?」
佐伯の目が俺へ向いた。
彼は俺を知らない女の子として見ている。黒田に聞いたのも、俺の名前を知らないからだ。
何と答えるか考えている間に、彼の視線がフードと腕の中へ移った。
「それ、何かのイベント? しっぽまであるけど」
俺の腕が固くなった。
黒田が口を開きかけ、止まる。俺が自分で伝えるまで、ほかの人へは話さないと約束したことを、思い出したのだろう。
三浦が部屋から出てきた。彼を見た佐伯が、今度は少し不思議そうな顔をする。
佐伯から見れば、見慣れた三人の隣に、瀬川の代わりに知らない女がいることになる。
「瀬川は、まだ休んでるの?」
俺は息を吸う。
ここで黙っていれば、三浦か黒田が何か答えてくれる。それから俺は部屋へ戻り、ドアを閉めればよかった。
でも、明日も佐伯に会うかもしれない。本番では、同じ教室にいる。
「佐伯。俺、瀬川」
彼の顔から、軽い笑いが消えた。
「……え?」
「急に姿と声が変わって、今、病院で調べてもらってる。大学にも相談してる。イベントじゃない」
言い終えても、佐伯は答えなかった。
隣で黒田が一度頷く。俺は抱えたしっぽを少し緩め、続きを話す。
「ここで詳しく話すのは、ちょっときつい。今は練習に来てるんだ」
佐伯の視線が、黒田と三浦の顔へ動く。二人とも笑っていないことを確かめてから、また俺を見る。
「ごめん。俺、何かふざけてるのかと」
「分かる。見たら、そう思うと思う」
俺自身も、最初は作り物だと思って引っ張った。佐伯が変だと思ったことまで、責めたいわけではなかった。
ただ、そのまま冗談として話が進んでいたら、俺は部屋へ戻れなくなったかもしれない。
「この話、ほかの人には今、広めないでほしい」
「分かった。……俺も、まだ分かってないけど」
佐伯は困った顔で言う。
俺は、俺もだよ、と答える。彼は短く頷き、練習の邪魔をしたと謝ってから廊下を戻っていった。
俺はその背中を見送り、壁のほうへ寄った。
「休憩、まだ始まってないのに疲れた」
黒田が小さく笑う。三浦が俺の顔を見て、水野さんに声をかけておくかと聞く。
「大丈夫。ちょっと座る」
俺はそう答えて、部屋へ戻った。
*
約束した時刻に講義を担当する先生が来たときには、俺はもう一度原稿を開いている。
先生は挨拶し、俺からのメールと、相談窓口から伝えてよいと了承した範囲の事情を読んだと話す。三浦たちと同じように、耳へ目が止まる。けれど、最初に聞かれたのは、今の席で痛むところはないか、だった。
俺は大丈夫だと答える。
「では、一度聞かせてもらえますか。今日は途中で止めても構いません」
四人で最初から話す。
俺の番が近づくと、指に力が入った。さっき佐伯へ名乗った声を思い出す。あのときは怖くても、相手の顔を見て話せた。
今度は、資料の内容を伝えればいい。
俺は一度顔を上げ、説明を始める。
途中で言葉を間違え、原稿へ目を戻す。それでも最初からやり直さず、文を言い直して続ける。しっぽは椅子の上に載っている。誰もそこへ足を出さない。
最後の一文を読んで、大槻へ話を渡す。
先生は終わるまで待ってから、俺の資料の一箇所を指した。
「瀬川さん、ここの数字は、前の表と同じ条件で比べていますか」
俺は資料を開き直す。昨日、引用元を見て書き直したところだった。
比べられる範囲と、比べられないところを説明する。先生は頷いたが、それなら発表でも一言補ったほうがいいと言う。
「はい。ここに入れます」
鉛筆で書き足す。先生は大槻のところにも指摘をして、四人の説明が発表の持ち時間に収まるかを確かめる。
俺の声や耳の話だけで、その時間が終わることはなかった。
帰る前に、先生から本番について聞かれる。
俺が担当した資料を使って、三人で発表する形でも課題への参加として扱えるという。自分で話したいなら、座ったまま説明したり、その講義のうち発表する時間だけ参加したりする形も相談できる。
俺は原稿と、しっぽを載せた椅子を見る。
「教室でも、横にこれを置けますか」
空いた椅子を指すと、先生は通り道を塞がない場所を確かめようと言う。その講義で使う教室は、次の時間まで空いている。少しだけ入って、席を試せるという。
俺は三浦たちへ顔を向ける。大槻が時計を見て、まだ時間はある、と答える。
「見たいです。お願いします」
四人で資料を片づけ、タオルを持って部屋を出た。
廊下ではさっきより人が増えていた。しっぽを抱える腕には、また力が入った。それでも、先生の後ろを歩きながら、黒田と追加する一文の話をした。
教室の扉を開けると、いつもの机が並んでいた。
俺は前に使っていた席を見る。机と椅子の間が狭く、後ろの人が通る場所へしっぽを出すことになりそうだった。
先生と相談して、端の席で試す。横へ椅子を置き、タオルを敷いて座ると、部屋での練習と近い姿勢になれた。大槻が通路を歩いて、ぶつからず通れるか確かめる。
「ここなら、いけそう」
彼女が言う。俺も頷く。
教室の後ろへ黒田が立ち、声が聞こえるか試すことになった。俺は資料の最初の段落を、もう一度読んだ。
黒田が耳へ手を添える。俺は少し声を大きくした。
「聞こえた」
その返事が届き、俺は原稿を下ろす。
「本番、俺の担当は俺が話したいです」
先生へ言う。三浦が隣で顔を上げる。
「座ったままで。途中で無理になったら、代わってもらう形でもいいですか」
「はい。代わるときの合図は、四人で決めておいてください」
先生は答える。大槻が、合図が来たら続きを読めるよう原稿を持っておくと言う。
俺は礼を言い、黒田が戻ってくるのを待った。
教室にはまだ、俺たちと先生しかいない。
発表の日には、この講義を履修している学生が席を埋める。佐伯のような知り合いもいれば、講義で顔を見るだけで、話したことのない人もいる。最初に事情をどこまで説明するかは、先生と改めて相談することにした。
怖さは残っていたが、説明を始める席と、代わってくれる人は分かる。
*
大学を出たあと、俺たちは駅の手前で一度休んだ。
大槻と黒田は別の方向へ帰る。三浦は俺と電車へ乗ることになっていた。
黒田が鞄から買い物の袋を出す。中に食パンが入っている。
「これ。朝のパン忘れたって、三浦から聞いた」
俺は三浦を見る。彼は目を逸らさず、黒田が何か買っていくかって聞くから、と答える。
「身体の話は内緒なのに、パンの話は早いな」
「パンは説明できるから」
黒田に言われ、俺は笑う。代金を聞いて送金し、パンを受け取る。今日は鞄に資料が入っているので、帰りは三浦が袋を持つことになった。
大槻が、本番の前にも一度合わせようと言う。俺はその日程を聞き、スマホへ入れる。
行けたらではなく、自分が加わる練習の予定だった。
帰宅した頃には、声を出し続けた疲れもあった。
母さんへ帰ったと連絡し、今日は教室も見て、本番に参加するつもりだと伝える。詳しい話は夕飯のあとにした。
予備のTシャツへ着替え、しっぽをいつもの台へ下ろす。
配信のメモを開くと、パン屋と、知り合いへ姿を見せた話が並んでいた。俺はその下へ、今日、外の椅子でも座れたことを書いた。大学名や発表の日時は書かない。
黒田たちに配信を見せるかどうかも、まだ決めていなかった。ただ、次に顔を合わせるときには、今日の練習の話ができる。
俺は本番用の資料を開き、先生に言われた一文を直した。
文章を誰かへ渡すためだけではなく、自分で読むために整える。そこで句読点を一つ増やすと、息を継ぐ場所が分かりやすくなった。
机の横にはしっぽがあり、玄関には大学から帰ってきた靴がある。
次に履く日の予定を確かめてから、俺は資料を保存した。




