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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第1章「しっぽのある暮らしを始めます」

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第16話 今日は、自分のトレーで

 冷蔵庫に残っていた母さんのメモを、俺は一枚外す。

 昨日までその前に置かれていた容器は、もう洗って棚へ戻してある。上の段にあった食べ物が減り、奥が見えるようになっている。何も食べずに減ったわけではないのに、空いた場所を見ると少し不安になった。

 冷凍庫にはまだ食べるものがある。ただ、パンは昨日の朝でなくなっていた。


 買い物のメモを開いて、食パンと打つ。

 その文字を見ているうちに、前に行ったパン屋を思い出す。カレーパンを自分で選び、三浦にトレーを持ってもらった店だ。いつか一人で買いたいと思ったまま、まだ行っていなかった。


 今日は、そこへ行ってみてもいいかもしれない。


 そう考えてから、俺は冷蔵庫を閉める。今すぐ食べるものに困っているわけではない。途中で帰ってきても、昼飯は作れる。

 病院の日と違って、着かなければならない時刻もない。欲しいパンがなければ、別のものにするか、そのまま帰ればよかった。


 七日目の朝は、そんなことを考えながら始まる。

 予備のTシャツは、まだ届いていない。今あるグレーの一枚と巻くスカートへ着替え、パーカーを羽織る。鏡の前でフードを直したあと、俺は肩掛け鞄を持って椅子へ座る。

 入れるものを、昨日までと同じにしかけて、手を止める。

 今日は病院の書類はいらない。財布とスマホ、水、小さなタオル。それから、買ったパンを入れる場所が必要だった。


 鞄の口を開いたまま、もう一度考える。

 前の買い物で俺の手が足りなかったのは、会計のときだけではない。パンを選ぶときから、しっぽを支える腕と、トングを持つ手で両方塞がっていた。財布を先に出すだけでは、店の中で同じことになる。


 俺は鞄を机へ置き、しっぽを身体の前へ回す。左の腕で抱え、その腕へ空のトレーを載せるつもりで、台所の小さな盆を持ってくる。

 毛の上に盆を置くと、角度が定まらなかった。しっぽをもう少し身体へ寄せ、手首から先を空けて、その手で盆の端を下から支える。

 持てた。ただし、腕ごと向きを変えると、盆も少し傾いた。


「ここにパン載せるのか」


 声に出すと、急に難しそうになった。

 軽い布巾を載せて試す。右手で取って、盆へ戻す。しっぽを抱え直そうとすると盆も動くので、先に腕の中へ収めてから持ったほうがよかった。

 何度かやるうちに、まったくできないわけではないと分かる。けれど、一度に沢山のパンを積むのは無理そうだった。


 俺は買い物メモを、食パンか、昼のパン一個、と書き直す。

 両方買えたら嬉しいが、今日のうちに全部試す必要はなかった。


     *


 出かける前に、三浦へ連絡した。

 パン屋へ一人で行ってみると書くと、少しして『今から?』と来る。今から、と返す。彼はすぐに電話をかけてきた。


「今日、俺が行けるの夕方なんだけど」

「うん。付き添い頼む連絡じゃなくて。帰ったら知らせようと思って」


 向こうで少し間があった。


「そうか。財布と、帰りの荷物は?」

「財布は取りやすくした。鞄も空けた。パンは沢山買わない」

「トレーは?」


 やはり聞かれる。俺は家で試した持ち方を説明した。三浦は、店のトレーの大きさが違うかもしれないと言う。


「うん。無理だったら、店の人に取ってもらえるか聞く」

「それならいいと思う。できないからって、無理に持つなよ」


 分かったと答える。話しているうち、一人で行くと言ったからには一人で全部やらなければ、という気持ちが、少し混ざっていたことに気づく。

 店員に頼むところまで考えておけば、トレーを持てなかった時点で帰る必要もない。


 電話を切り、鍵を持って玄関へ向かった。

 扉を開けるときにはしっぽを身体の後ろへ寄せ、開けてから腕へ戻す。階段ではゆっくり足を置く。後ろに三浦の足音がないことが、思っていたより気になる。

 踊り場まで下りて一度止まり、しっぽの先が腕から落ちていないか確かめる。それから続きを下りた。


 建物の外へ出ると、風でフードの端が動く。

 耳がそちらへ向いたが、前のようにすぐ立ち止まるほどではなかった。車が近づく音に気を取られたときは、歩道の端へ寄ってから顔を向ける。

 道そのものは知っている。今の身体で一人で歩くのが初めてなだけだと思い、パン屋へ向かう角を曲がった。


 入口の前で、鞄の紐を直す。

 帰ろうと思えば、まだ帰れる。そのことを一度確かめてから、俺は扉を開ける。


 焼いたパンの匂いがした。前に来たときも同じだったが、今日は店内のどこへ立てばいいかを先に見る。入口のすぐ横にトレーがあり、その先の棚にパンが並んでいる。

 客は二人いた。俺は一人が棚から離れるのを待ち、トレーの前へ進んだ。


「いらっしゃいませ」


 レジの店員が顔を上げる。前に袋へ詰めてもらった人だった。

 俺を見て、少しだけ表情が変わる。覚えているのかもしれないと思ったが、向こうから何か言われることはなかった。


 しっぽを左腕へしっかり収め、同じ手でトレーを取る。

 家の盆より幅があり、手前の端を持つと先が下がりかける。俺はすぐ両手で戻し、棚の前で一度持ち方を変える。

 左手を端より少し内側へ入れ、底を支える。しっぽは肘のほうで抱える形になった。さっきより安定したが、右手を離す前に、何も載っていないことを確かめた。


 トングを取って、まず近くのミルクパンを挟んだ。

 引き上げたとき、パンが予想より軽くて、トングの先が少し跳ねた。俺はそのままトレーへ近づけ、中央に置く。

 一個が載った。

 それだけなのに、前の買い物とは違うことをした実感があった。


 カレーパンは少し先の棚にあった。俺はトレーを水平に持ち、身体の向きをゆっくり変える。しっぽを抱える腕が窮屈で、途中で一度止まる。

 右手にはトングがあるので、今は抱え直せない。カレーパンまで行って戻ることを考え、俺は近くの台へトレーを置けるか探す。


 レジの前に空いた場所があった。そこへ行けば、まず一個を置いて、腕を直せる。

 そう決めて進んだところで、店員が声をかける。


「こちら、お預かりしましょうか」


 俺はトレーと店員の顔を見る。

 大丈夫ですと言いかけ、肘に力が入っていることを思い出す。


「お願いします。あと、カレーパンを一個欲しいんですけど、取ってもらえますか」

「はい。こちらのミルクパンと、カレーパンがお一つですね」


 店員はトレーを受け取り、俺が示したパンを取ってくれた。俺はトングを所定の場所へ戻し、空いた右手でしっぽの先を直す。

 たったそれだけで、腕が少し楽になった。


「トレー、ちょっと難しくて」


 説明が必要だと思い、そう付け加える。店員は俺の腕のほうを一度見てから、頷く。


「お申しつけいただければ、お取りしますよ」


 どうしてそんな姿をしているのかとは聞かれなかった。俺も、しっぽの説明はしなかった。

 できることを試して、途中で頼んだ。それで、欲しいものが二つ揃っている。


 会計では、レジへ進む前に財布を出す。前と同じようにパンは紙袋へ入れてもらい、追加の持ち帰り袋は断る。

 財布をしまってから鞄を開け、書類のない空いた場所へ紙袋を入れる。水のボトルは脇へ寄せてあったので、押し潰さずに収まる。

 閉じようとした鞄の口へ、しっぽの毛先が少し入っている。俺は慌てずに引き出し、もう一度閉じる。


「ありがとうございます」


 店員に礼を言って、扉を開ける。

 外へ出てから、俺は鞄の中の紙袋を確かめる。ちゃんと買ったパンがある。昼飯を自分で選んで、自分で持って帰れるところまで来ている。


     *


 帰り道では、行きより歩く速さが少し上がった。

 気づいて足を緩めたが、今すぐ食べたくなったのは本当だった。前と同じ二つを買ったことを思い返し、別のパンにすればよかったかと考える。

 けれど、今日は食べたいものを間違えずに頼めたので、同じでもよかった。


 建物へ戻り、階段を上る前に三浦へ一行送る。


『買えた。今から部屋戻る』


 スマホをしまい、しっぽを抱え直す。紙袋の分だけ鞄が膨らんでいたが、重すぎるほどではない。

 階段を上り終え、鍵を開けるところでは、鞄をずらすのに少し手間取る。ここはまだ考える余地がありそうだった。


 部屋へ入ると、先に紙袋を机へ置く。

 靴を脱ぎ、手を洗い、部屋着へ着替える。いつもの台にしっぽを載せて座ってから、三浦へ詳しく報告した。

 最初の一個はトレーへ載せたこと。二個目は取ってもらったこと。紙袋は鞄に入れられたこと。


 返事は『買えたなら成功だろ』だった。

 俺はその文を読んでから、パンを袋から出す。


 熱々ではなかったが、カレーパンの表面はまだ少し軽く音がした。皿へミルクパンも載せ、両方の並んだところを眺める。

 この二つを、前には三浦と一緒に食べた。今日は一人で座っているが、彼へ報告したばかりなので、急に寂しくなることもなかった。


 カレーパンを半分食べた頃、母さんから着信があった。

 パン屋へ行ってきたと伝えると、少し驚かれた。何を買ったのか聞かれ、カレーパンとミルクパンだと答える。


「朝のパンも、なくなったんじゃなかった?」


 俺は皿を見る。

 食パンか昼のパン一個と書き直してから、結局、昼のパンを二つ買っている。


「……今日の昼は買えた」

「明日の朝は?」

「冷凍庫のやつ食べる。買うもの、またメモする」


 母さんが笑ったので、俺も笑う。初めて買い物ができた気分で帰ってきて、買い物の目的は半分置いてきていたらしい。

 それでも、何も食べるものがないわけではない。明日の朝を考えてから、次は食パンも頼めるか確かめればよかった。


 電話を終え、食べ終わった皿を片づける。残ったミルクパンは紙袋へ戻す。

 午後の課題を始める前に、配信のメモを開く。


『パン屋で、一人で買えました』


 そう書くと、短すぎて今日のことがうまく残らない気がする。俺は続きを足した。


『一個は自分で取って、もう一個はお店の人に頼みました』


 途中で手伝ってもらったところも、次に話していいことだった。トレーを一度置ける場所があると助かるし、財布を先に出すのも役に立つ。持ち方だけで全部片づいたわけではない。

 毎回、一から困っている話をする必要もなくなってきた。前に相談したことを試して、その結果を持って帰れる日がある。


 俺は最後に、もう一行書く。


『朝のパンを買うのは忘れました』


 これを読んだら、ねじまきは何と言うだろう。糸日和なら、買い物メモを見てから店へ入るといいと書くかもしれない。

 まだ始めてもいない配信のコメントを想像して、俺は少し笑った。


 今日のところは告知を出さず、メモを閉じた。パソコンには、班へ送った資料への返事が来ている。

 しっぽをクッションへ載せ直し、俺はその続きを読んだ。玄関の鞄は空になっていて、机の横にはパンの袋がある。

 外へ出て帰ってきたあとに、自分の作業へ戻れることが、今日は少し嬉しかった。

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