第15話 そこ、しっぽの席です
朝、目を開けて最初に思ったのは、もう少し寝たい、だった。
時計を見てから、昨日は電車で病院へ行ったのだと思い出す。身体が変わっていないか確かめるより先に、昨日の疲れが残っていた。横を向いたまま腕を伸ばし、枕元のスマホを取る。
三浦から、ちゃんと寝たかとメッセージが来ている。寝た、まだ寝たいと返すと、しばらくして『今日は電車乗らなくていいからな』と届く。
それは確かに、昨日との大きな違いだった。
今日は部屋で課題を進める。外出のために服を整える必要も、紹介状があるか何度も確かめる必要もない。
俺はしっぽをクッションから下ろし、ゆっくり起き上がる。腰の後ろに痛みはないが、肩には少し重さが残っている。
朝飯を食べ、机へ戻って資料を開く。
昨日、三浦に言われた引用元を探す。途中のまとめでは分かりやすく言い換えられていたところが、元の文章では条件つきで書かれている。そのまま使わなくてよかったと思い、共有用のメモへ書き足す。
数行打ったところで、右隣へ置いていた水のボトルを取る。戻すときに置き場所を間違え、ノートの角へ載せてしまった。ボトルをどかしてノートを引き出すと、今度は下の紙が一緒に滑った。
「……狭いな」
前から広い机ではない。でも、今日は病院の書類まである。配信のカメラと裁縫道具も、使わないまま端へ寄せている。
片づければ済むと思い、いったん机の上のものを分けた。病院の紙は封筒へ戻し、裁縫道具は箱へ。カメラはパソコンの横へ寄せる。空いたところへノートを置いたら、やっと水を戻せた。
その勢いで床も片づけようとして、椅子の横の段ボールを動かした。
上に載っていたタオルとクッションをいったん持ち上げ、箱を壁際へ押す。椅子の周りが広くなったので、満足して座る。
しっぽをいつものように横へ下ろしたら、途中から何も支えてくれなかった。
毛先が床へ着きかけ、俺は慌てて身体を捻った。引き戻したしっぽを膝へ載せ、今、自分が何を片づけたのか考える。
机の横にあって邪魔だった箱は、椅子へ座るために必要な箱でもあった。
壁際から元の場所へ戻すと、通り道はまた狭くなった。クッションにしっぽを載せて座り直し、俺は床を眺めた。
部屋を広く使う方法と、俺が楽に座る方法が、今は同じではないらしい。
*
昼前に、予備のTシャツを注文した。
最初は三浦へ買ってきてもらおうかと思ったが、もう一枚欲しいものは分かっている。今着ているTシャツの内側を見て、表示と形を確かめる。三浦にも店を教えてもらい、通販のページを開く。
サイズ表を見ても、数字だけでは実感が湧かなかった。そこで、洗う前に今の一枚を平らに広げ、幅と丈を測った。母さんが置いていった裁縫道具の中にメジャーがあったので、定規を何度も動かさずに済んだ。
同じものは見つからなかったが、近い寸法のものを選べた。
写真の人が着ている長さを見て、そのまま俺にも同じ長さになると考えかける。以前の身長で判断していると気づき、もう一度測った数字へ戻った。
サイズの文字だけでは選ばずに済んだことが、少し嬉しい。
注文を終えると、到着予定が表示された。今日洗って今日着る分には間に合わないが、次の洗濯からは一枚ずつ交代で使える。
母さんへ、自分で服を選んだと送る。返事は『届いたら着てみてね』だ。
その短さを見て、母さんは買い物の報告を待っていたのだろうかと考える。けれど、次に『小さかったら無理して着ないこと』と来て、俺は思わず笑う。
午後は課題のメモを三浦と班へ共有した。
大学から案内された方法で担当者にも連絡し、今は自宅から進めることを伝える。班の人たちには、身体の事情で通学について相談中だという範囲に留めた。どうして姿まで変わったのかは、俺にも説明できない。
メッセージを送る前は何を聞かれるか気になったが、返ってきたのは、資料ありがとう、そこは次の打ち合わせで使おうという返事だ。
自分が読む場所と、次に直す場所が決まる。
全員へ身体の説明をしなくても、作業に加われる時間があった。画面に並んだ指摘を読んでいるうち、俺も引用の書き方が気になり始める。
そのまま一時間ほど作業し、立ち上がるときには、しっぽ用の台を足で押さないよう気をつけた。
この台が邪魔だという話は、やっぱり誰かに聞いてもらいたかった。
俺は配信用のSNSを開き、今夜は短く報告をすると告知した。短パンのことに加え、椅子の横の置き場所も相談したいと書く。
先に夕飯を食べ、今日は配信を終えたあとに片づけだけ残すことにした。
*
カメラを置く前に、机の上をもう一度確かめる。
病院の封筒と課題のノートはしまった。スマホの通知は画面に入らない場所へ伏せる。映すのは机の手前と、椅子の横の台まで。顔も、窓の外も映らない。
短パンは今穿いているので、服そのものを広げることはできない。代わりに、前の配信で描いた図を出し、直した留め位置に印をつけた。
配信を始めると、しばらくして糸日和の名前が出た。
『こんばんは。今日は大丈夫そう?』
「こんばんは。昨日はすみません。今日は家にいたので、大丈夫です。夕飯も食べました」
言ってから、食事の報告まで必要だっただろうかと思った。糸日和からは『準備できてる』と返ってきた。
俺は机へ両手を置き、まず短パンの話をした。
「腰の留め方を直して、部屋で穿いてます。座ると浮いてたところも、前よりよくなりました。台所で動いても、いちいち腰を直さなくて済むようになりました」
図の印を指で示し、どこを動かしたか説明する。糸日和は、穿いたままで不便なところはあるかと聞く。
俺は考えてから、洗ったら着るものがなくなると答える。
『もう一着の問題が来た』
「そうなんです。Tシャツも一枚しかなくて。今日、替えを注文しました。服って、着られたら終わりじゃなかったです」
言い終わる頃、ねじまきのコメントが出た。
『こんばんは。短パン、完成した?』
「こんばんは。部屋着にはなりました。外で穿くのは、まだです」
『おお。穴を開ける前から進んだ』
ねじまきが来た回には、まだ短パンを切っていなかった。図と試作品の話をしている間も、向こうでは別の時間が流れていたのだろう。
俺はもう一度、腰から開いて留める形を説明した。糸日和が『前回、試着まで行きました』と補足する。
二人とも俺の話を全部知っているわけではない。どこから説明すれば伝わるかを考えるのも、配信で少しずつ覚えることだ。
「今日は、こっちも相談したくて」
机の図をどけ、椅子の横を指した。
段ボールの上にタオルを敷き、長いクッションの端を載せている。しっぽはその上に収まり、俺が浅く座れば根元も押されない。最初の配信から使っている場所だ。
「座るのは楽になったんですけど、立つときに箱が邪魔なんです。今日、片づけたら、今度は座れなくなりました」
『しっぽの席を撤去した』
ねじまきにそう書かれ、俺は笑う。
「そうです。片づけてから座って、なんで片づけたんだろうって思いました」
『人間の席は残したのに』
人間の席という言葉で、しっぽを載せた自分の椅子を見下ろす。俺としっぽで席を分けているのは、確かに妙だ。
俺が立つには、まずしっぽを持ち上げ、椅子を少し引き、箱とは反対へ足を出す必要がある。無意識にやるには、まだ手順が多かった。
ねじまきは、箱の中には何が入っているのかと聞く。
「何も。空です。高さがよさそうだったから、そのまま使ってて」
『必要なの、高さと上の面だけか』
『でも細くすると、ずれたり倒れたりしそう』
糸日和のコメントが続いた。俺は箱の横へ手を当てた。しっぽを載せているだけなら動かないが、立つときに脚で押すと少し滑る。
箱を小さくすれば解決、というほど単純ではない。
「とりあえず、買ったほうがいいですかね。小さい台」
『その前に、今の場所で置き方変えられない?』
ねじまきの返事を読んで、俺は部屋の中を見る。
椅子の左側は壁が近いので、右へしっぽを出している。その右側を通って、台所や玄関へ行く。通るところに箱を置いていたから、毎回避けなければならなかった。
机を少しずらせば左へ出せるかもしれないが、パソコンの線まで動かす必要がある。配信中に全部引っ張る気にはなれなかった。
「今日は、机ごとは無理です」
『机まで動かさなくても、座る位置を端へ寄せたらどう?』
俺は画面を見てから、机の左端を見る。さっきまでカメラと道具が置いてあった場所が、今は空いている。
パソコンをそのほうへ少し寄せ、椅子も動かす。しっぽの台を身体の右横へ戻すと、箱の向こう側に、さっきより幅のある通り道ができた。
いったん座って、足の位置を確かめる。
立つときに椅子をどれくらい引くかも試す。箱はまだ近いが、今度は足を出した先に、通れる場所があった。
「……これ、前よりいいかも」
声を出してから、カメラが元の場所を映していることに気づく。画面の中には、俺の手も、しっぽもなく、空の椅子だけが残っている。
『席ごと引っ越した』
『配信には空席が残りました』
二人のコメントを見て、俺は吹き出す。
「すみません。俺のほうは、座りやすくなってます」
カメラを動かす前に、いったん映像を切った。角度を合わせ、映る範囲を確認して戻す。座り直して手を振ると、ねじまきから『おかえり』と来る。
たった半歩ほど席を寄せただけなのに、そこまで慌ただしかった。
糸日和が、服の直し方と似ていると書く。邪魔だから切る前に、どこを開けば使えるか考えたことを言っているらしい。
俺は頷きかけ、顔は映っていないと思い出して、そうですねと答える。
「台は、ずっと段ボールのままだと傷みそうなので、いずれ何か考えたいです。でも、今すぐ買う前に、ここで何日か使ってみます」
『高さ、今のうちに測っとくとよさそう』
メジャーを持ってきて、床から箱の上まで測った。数字を紙へ書き、箱の縦横も控える。糸日和は、しっぽがどこまで載っていれば楽なのかも覚えておくといいと続ける。
寸法だけなら、朝のTシャツ選びで使ったばかりだ。次に探すとき、見た目だけで選ばずに済みそうだ。
相談が落ち着いたところで、電車に乗った話も少しした。
どこへ行ったかは話さず、座る前に鞄を預けたことと、帰りは混んでいたことを伝える。ねじまきは『椅子の横に箱置けないもんな』と書く。
「家と同じようにはいかなかったです。今日は、この箱があるのがありがたかったです。邪魔だって言ったばっかりですけど」
『必要だけど邪魔、あるある』
糸日和の返事を読みながら、俺は横のクッションへ手を載せる。
最初はしっぽをどこへやればいいか、本当に分からなかった。今は台があると座れるし、その台の置き方まで相談できる。
困りごとは続いているが、同じところで立ち止まっていたわけでもなかった。
配信を終える前、次はいつかとねじまきに聞かれる。
毎日やりますと言いかけて、昨日のことを思い出す。授業の作業もあるし、洗濯もする。話したいことを見つけるために、わざわざ失敗する必要もなかった。
「まだ決めてないです。替えのTシャツが届いたら、服の話はできます。時間が決まったら、先に書きます」
『了解。合うときに来ます』
『次は替えの替えが欲しくなるかも』
「それ、どこで終わるんですか」
笑ってから、お礼を言って配信を切った。履歴を自分だけに公開する設定へ変え、カメラを外す。
今日は診察の話を一度もしなかった。戻る方法が分からないことまで、全部話す必要はない。それでも、昨日のあとに何をしていたかは、ちゃんと聞いてもらえた。
机の端へ寄せたパソコンを、そのままにするか考える。試しに課題のファイルを開き、少しだけ文字を打つ。姿勢は窮屈ではなく、水を置く場所もある。
ファイルを閉じて立つとき、箱を足で押さずに済んだ。
俺は小さな紙へ、測った寸法をまとめた。その上に『しっぽの台』と書いて、裁縫道具の箱へ入れる。
部屋の通り道が少し広くなり、机には俺の作業場所が残る。横の箱には、相変わらずしっぽが載る。
片づけるものと、残しておくものが、朝より少し分かった気がする。




