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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第1章「しっぽのある暮らしを始めます」

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第14話 今日は、ここまで

 診察室へ入ると、机の向こうにいた先生が立ち上がった。

 俺の耳を見て、目が一度止まる。それから手元の書類へ視線を戻し、瀬川さんですね、と名前を確かめる。紹介状を読んでいても、実際に見るのとは違うらしい。


「相原です。新田先生からお話を伺っています。そちらの方は?」

「大学の友達です。一緒に聞いてもらっていいですか」


 俺が答えると、相原先生は三浦にも挨拶し、椅子を示す。

 座る前にしっぽを前へ回していると、先生が横の椅子を動かしかける。俺は、この座り方なら大丈夫ですと伝える。先生は椅子を動かす手を止め、俺が腰を下ろすのを待って話を始める。


 変わった日のことを、順番に聞かれる。

 前の晩にはいつもどおり寝たこと。朝、起きたら身体が変わっていたこと。思い当たる出来事がないこと。聞かれるうち、何もないと思っていた前の晩を、俺はもう一度思い返す。

 特別なものを食べただろうか。誰かに会っただろうか。変な場所へ行っただろうか。

 どれも、これだと言えるものは出てこなかった。


「普通に帰って、寝たんです。今考えると、何か忘れてるのかもしれないけど」

「思い出せないところを、無理に埋めなくて大丈夫です。あとから思い出したことがあれば教えてください」


 先生は書類へ書き足す。俺は膝のしっぽを撫でかけ、手を止める。

 せっかく別の病院まで来たのだから、何か新しいことを話さなければと思っていた。けれど、前に話したことが、急に詳しくなるわけではない。


 食事と睡眠、痛む場所については、答えられる。

 食べる量が少し減った。横を向き、しっぽをクッションへ載せれば眠れる。挟むと痛いし、毛を引かれても痛い。持ち上げる練習を続けると、腰の後ろが疲れる。

 俺が説明している間、三浦は黙って聞いていたが、先生から外出の様子を尋ねられると、階段では支えていると付け加える。


「今日、電車にも乗れました」


 言ってから、診察で自慢することでもないかと思った。先生はそれを笑わず、移動でつらくなったところはあったかと聞く。

 俺は、座席でしっぽと鞄を一緒に持つのが難しかったことを話す。先生は少し考え、身体の痛みと、動作のしづらさを分けて聞いてくれた。

 うまく答えられない質問もあったが、全部を一つの「困っている」にまとめずに済んだ。


 診察台で身体を確認するときには、三浦に外で待ってもらった。

 看護師さんがカーテンを閉め、服を動かす必要がある箇所を説明してくれた。俺は自分でスカートの腰を緩め、しっぽの根元が引かれないよう横を向いた。

 触れる前には声がかかった。それでも力が入ってしまい、肩を少し下げていいですよと言われて、ようやく自分が固まっていると分かる。


 耳もしっぽも、今は俺の身体だ。

 頭では分かっているつもりでも、初めて会った人の手が近づくと、どう触られるのか考えずにはいられなかった。何を確認するのか先に聞けるだけで、少し違った。

 診察が終わり、服を戻していいと言われたときには、思ったより疲れている。


 三浦が戻ってきてから、今後の話を聞く。

 今日は採血をして、まず分かる範囲の身体の状態を確かめる。結果を見たうえで、ほかに何を調べるか、院内でも相談するという。次に来る日と、それまでに連絡が必要になったときの窓口を、紙に書いてもらった。


「あの」


 俺は用紙を受け取る前に、先生の顔を見る。


「これを調べたら、戻り方が分かるんですか」


 先生はすぐには答えなかった。言葉を選んでいる間が、机の上に落ちる。


「今回の検査だけで、元の身体に戻す方法まで分かるとは言えません。まず、今の身体で何が起きているのか、確認できるところから調べたいと考えています」

「……そうですか」


 期待しすぎないようにして来たつもりだった。それでも、すぐに戻す方法があると言ってもらえる可能性を、どこかに残していたらしい。

 俺は紙の端へ目を落とす。次の来院日が書いてある。そこまで、この姿のまま過ごすことを、急に具体的に考える。


「大学に、どこまで戻っていいのかも、まだ分からなくて」


 口にすると、思っていたより声が小さかった。

 先生はどんな授業があるのか、大学には何を伝えているのかを聞く。オンラインで相談したことと、今は自宅で資料を読んでいることを話す。


「大学へ説明するために、受診したことや確認できた状態をまとめる必要があるかもしれません。必要な書類を、大学側にも確かめてもらえますか」


 はいと答え、俺はメモへ書く。

 戻れるという答えはもらえなかった。ただ、大学と話すときに何を確かめればいいかは、一つ増える。

 先生へ全部決めてもらいたいわけではない。それでも、何も分からないまま俺だけで説明を続けるのかと思っていたので、受診したことを伝える手段があるのは助かった。


     *


 採血を待つ間、三浦は俺の鞄を持っている。

 診察室を出てからも俺が黙っていたので、何か言おうとしているのは分かる。けれど、彼は番号の表示を一度見ただけで、隣に座る。


「悪い。もうちょっと時間かかる」

「今日、付き添うって言ったの、採血の前までじゃないから」


 俺は頷く。礼を言おうとして、代わりに息が出た。


「今日で、何か決まるかと思ってた」

「うん」

「先生が悪いとかじゃなくて。もっと大きいところなら、って」


 三浦は返事を急がなかった。俺も、慰める言葉を探してほしくて言ったわけではない。

 言ってしまうと、期待していたことを、わざわざ隠して座っていなくてよくなった。俺は膝の上でしっぽを抱え直し、呼ばれるのを待った。


 採血の椅子でも、座る前にしっぽの位置を確かめる。腕を出す必要があるので、鞄は三浦に預けたままにする。

 看護師さんに針は平気かと聞かれ、大丈夫ですと答えたあと、念のため顔を横へ向ける。

 昨日まで男だったとか、しっぽが生えているとか、そのあたりは関係なく、見たくないものは見たくなかった。


 終わって戻ると、三浦が俺の腕の絆創膏を見る。


「平気だった?」

「見なかったから平気」

「いつもどおりだな」


 以前、健康診断のあとにも似た話をした気がする。俺は少し笑い、鞄を受け取る。


 受付で次の予定を確かめ、書類の追加確認についても案内を聞く。外へ出る頃には、病院の中へ入ったときより日が傾いている。

 玄関脇で立ち止まって、母さんへ診察が終わったと送る。詳しい話は帰ってから電話することにした。


「駅まで、先に休む?」


 三浦に聞かれて、俺は歩けると答えかける。

 歩けるかもしれない。でも、今から駅へ行って、電車に乗り、また家まで歩く。そのことを順に思い浮かべると、少し座っておいたほうがよさそうだった。


「休む。水も飲みたい」


 言ったら、三浦は近くのベンチを指した。断ってから後で頼むより、ずっと簡単だった。


     *


 帰りの電車では、来たときより乗客が増えている。

 空いた席を探して車内を歩くのはやめ、乗った場所から少し奥へ入って立つ。俺はしっぽを腕で抱え、もう片方の手で吊り革を持つ。鞄は三浦に預けた。

 揺れるたびに、腕の中の重さがずれた。落とさないよう持ち直すと、今度は吊り革を握る手へ力が入る。


 次の駅で前の席が空いた。三浦が俺へ目を向けたが、すぐには動けなかった。立っている人の間を抜けるため、抱えたしっぽをもう少し身体へ寄せなければならない。

 向かいにいた人が一歩避けてくれて、俺はすみませんと言って席へ近づく。

 腰を下ろし、膝へしっぽを収めたとき、ようやく腕が休めた。


「行きは、空いててよかったな」


 三浦が小声で言う。俺は頷く。

 乗れたという事実は、行きも帰りも同じだった。でも、人の多さが違うと、同じ手順で楽に動けるとは限らない。

 明日から一人で通えるかと聞かれたら、まだ分からないと答えると思う。今日の帰りまで終えてから考えようとして、俺は窓のほうへ顔を向ける。


 地元の駅を出る頃には、肩が重くなっている。

 部屋のある建物が見えたときには嬉しかったが、その手前の階段を思い出して、すぐに速度が落ちる。三浦はここまで持っていた鞄を、玄関まで運んでくれた。


「帰った」


 鍵を開けると、思わず声が出た。誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。

 靴を脱ぎ、鞄を受け取って机へ置く。三浦がしっぽ用のクッションをいつもの場所へ寄せてくれたので、俺はそのまま椅子へ座る。

 背中の位置も、しっぽを載せる場所も分かっている。身体を一つずつ直さなくていいことに、こんなにほっとするとは思わなかった。


「お茶、飲む? 今、出す」

「先に休んで。俺、水あるから」


 立ちかけたところを止められ、俺は座り直す。

 三浦は少しだけ休んでから帰ることになった。その間に母さんへ電話をする。検査をしたことと、結果を聞く次の予定を、もらった紙を見ながら伝える。


「今日は、戻れるかどうかまでは分からなかった」


 母さんはそっかと言う。明るく言い直そうとはしなかった。

 少し間を置いて、俺は電車にも乗れたと付け加える。帰りは混んでいて、鞄を三浦へ持ってもらったことまで話す。


「三浦くん、まだいる?」

「いる。今から帰る」


 ありがとうと伝えて、と言われ、俺がそのまま繰り返す前に、三浦が聞こえてますと声を上げる。母さんの声も少し大きくなり、俺を挟んで二人が挨拶をした。

 急にいつもの部屋の会話になったので、俺はようやく病院の紙から目を離せた。


 三浦を見送るとき、また付き添いを頼むかもしれないと話す。


「次の時間、送っといて。講義と重なってたら相談しよう」

「分かった。今日、助かった」


 彼は頷き、玄関を出た。鍵を閉めたあと、俺はすぐ机へ戻った。

 短パンへ着替える前に、まだ一つ、決めることがあった。


 夜の配信をするかどうかだ。

 告知した時刻までには余裕がある。顔は映さないし、家事と電車の話なら、診察のことを説明しなくてもできる。そう考えて配信用のSNSを開いたが、何から話すか並べようとすると、頭がうまく働かなかった。

 今日は色々できた。その一つずつを、今夜中に話さなくてもよかった。


『今日は外出で疲れたので、配信を延期します。次の時間は、決まったらお知らせします』


 投稿してから、少し物足りなくなった。来てくれるつもりの人がいたかもしれないと思い、最後にもう一文足した。


『短パンは、部屋着として使えるようになりました。次は、その報告からします』


 ページを閉じて着替えようとしたところで、大学のメールが届く。

 水野さんからだった。相談していた資料作りの授業について、当面は自宅から担当部分をまとめ、班へ共有する形で進められるという。授業担当者との連絡方法も書いてあった。

 ほかの授業まで同じ扱いになるわけではなく、追加で確かめることもある。それでも、三浦が空けてくれていた俺の担当を、このまま進めていいことは分かる。


 俺は受診を終えたことを短く返し、大学へ提出する書類が必要かも尋ねた。課題の資料を開きかけて、今夜はそこまでにする。

 自宅で進めていいと言われた初日に、疲れた頭で全部やる必要はない。


 部屋着の短パンへ着替え、冷蔵庫から夕飯を出す。母さんのメモを見て温め、皿と水を机へ運ぶ。

 スマホを見ると、延期のお知らせに糸日和から返事がついている。


『了解です。部屋着になったの、よかった。また都合が合えば見に行きます』


 怒られるとは思っていなかったが、そう返ってくると、やはり安心した。お礼だけ返し、スマホを横へ置く。

 次に配信をするときは、短パンのことから話せる。電車のことは、そのあとでもいい。まだ困っていることも、ちゃんと残っている。


 俺は箸を取り、少し冷め始めた飯を食べた。

 今日、元の身体へ戻る方法は分からなかった。それを思い出すと、今も胸の奥が重くなる。

 ただ、帰ってきた部屋でしっぽを休ませながら、次にやる課題と、次に話すことは決まっていた。今夜は飯を食って、早めに寝ようと思った。

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