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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第1章「しっぽのある暮らしを始めます」

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第13話 しっぽの分まで、乗ります

 出かける一時間前には準備を終えておこうと思っていたのに、玄関へ持ってきた鞄を、俺はもう三回も机へ戻している。

 財布を確かめ、書類を確かめ、最後に水を入れる。水を入れたらタオルが奥へ押し込まれたので、使う順に詰め直す。昨日作った一覧には全部印がついている。それでも鞄を閉めると、今確かめたものがちゃんと入っているか気になる。


 五日目の朝も、鏡の中の俺には耳としっぽがあった。

 朝飯のあと、部屋着から巻くスカートへ着替える手順には、少し慣れてきた。しっぽを布の重なりから出し、腰の位置を確かめ、Tシャツを下ろす。母さんに見てもらわなくても、一度で済んだ。

 その調子で外へも行ければいいのだが、今日は電車に乗る。


 スマホが鳴って、俺は鞄を開ける手を止める。三浦から、講義が終わったので予定どおり来るという連絡だ。了解と返し、母さんにも出発の準備ができたと送る。

 すぐに『朝ご飯食べた?』と来たので、パンと卵を食べたと答える。続いて何か届くかと思ったが、返事は『気をつけてね』だけだ。

 母さんも、今日はここまでにしてくれたのかもしれない。


 三浦が来たとき、俺は玄関で靴紐を結んでいる。見上げると、彼はいつもの鞄を肩に掛けて、俺の足元と、その横に置いた鞄を順に見る。


「準備できてる?」

「できてる。今、四回目の確認をするところだった」

「じゃあ、五回目の前に行こう」


 言われて笑うと、少し息がしやすくなった。俺は鞄を身体の前へ回し、鍵を手に持つ。階段を下りる間はしっぽを片腕で支える。三浦はもう、俺が一段ずつ足を置くのを見ても急かさなかった。


 紹介状を受け取るため、先に近所の病院へ寄った。

 受付で名前を告げると、確認を挟んでから、封筒を渡された。紹介先へそのまま出してくださいと言われ、俺は折れないよう鞄の書類と重ねた。

 新田先生とは今日は会わなかった。昨日の電話で聞いた場所と時間を受付でもう一度確かめ、外へ出る。ここまでの道なら、前に一度歩いている。封筒が増えたこと以外は、何とか同じようにできた。


「駅、こっちでいいんだよな」

「うん。急がなくても間に合う」


 三浦がスマホの時刻を見せた。乗るつもりの電車に間に合わなくても、その次で余裕がある。予定を聞いたときには随分早いと思ったが、今日はその余分な時間がありがたかった。

 昨日母さんと歩いた横断歩道を渡り、途中の低い塀のそばで一度立ち止まる。靴は痛くなかった。腰の後ろにも、今のところ重さ以外の違和感はない。

 ただ、駅が近づくにつれて、しっぽを抱える腕に力が入っている。


 改札へ向かう人の流れを見て、俺は入り口の横へ寄った。

 普段なら財布からカードを出し、そのまま通っていたところだ。今日は先に取り出しておかないと、改札の前で鞄としっぽを持ったまま探すことになる。

 財布を開いてカードを抜き、落とさないよう指で挟む。その間、三浦は少し先へ行くでもなく、案内板を見て待っている。


「一回、置ける場所があるといいな」

「しっぽ?」

「財布。しっぽは、駅で置きたくない」

「それはそうか」


 自分で言って、妙に切実だ。両手を空けたいとき、財布なら机へ置けるが、しっぽを手放すには落ちる先を見なければならない。床から少し浮かせられるようになっても、人が通る場所では試す気になれなかった。


 改札の幅は、見たところ十分だ。

 それなのに、通り始めてから、しっぽの先が腕からこぼれていないか気になる。読み取り部分へカードを当てたあと、横を見ようとして足が止まりかける。


「そのまま前、出てから見よう」


 三浦の声で顔を戻す。数歩進んで流れから外れ、ようやく腕の中を見る。しっぽはちゃんと収まっている。

 振り返った改札には、もう別の人が通っている。俺だけが、やたら長い場所を抜けたような気分になっている。


 ホームへの階段の手前で、案内板にエレベーターの表示を見つける。

 少し遠回りになるが、しっぽを持ったまま人の間を下りるよりは楽そうだ。俺がそちらを指すと、三浦は頷いて歩く方向を変える。

 頼んでから、もう一言説明を足しかける。疲れたわけではなくて、階段が嫌なわけでもなくて、と言おうとして、やめる。

 楽なほうへ行きたい。それで伝わっているのなら、理由を全部並べる必要もなかった。


     *


 ホームに着いた途端、向かい側を通過する電車の音がした。

 耳がそちらへ動き、フードの内側へ擦れた。驚いて肩が上がり、抱えたしっぽまで持ち上げてしまう。三浦は線路のほうを見てから、俺を見る。


「びっくりした?」

「音は、知ってるはずなんだけどな」


 今まで駅で聞いてきた音だった。何が通る音かも分かっている。それでも、身体が先に反応した。

 耳を押さえたくなったが、しっぽとカードで手が塞がっている。カードを鞄へしまい、フードの端を少し直す。毛の向きが戻ると、さっきより楽になった。


 俺たちは列の後ろについた。昼過ぎで、立つ場所に困るほど人は多くない。三浦が来る電車を見ながら、ドアの脇には立たないほうがよさそうだと言う。


「閉まるところに挟まるのが怖いから?」

「それもあるけど、毎駅、人が乗り降りするだろ。ずっと避けるの、大変そう」


 俺は頷いた。普段なら何も考えず、すぐ降りられる場所へ立っていた。今日は、その場所にいるだけで何度もしっぽを抱え直すことになりそうだった。


 電車が止まり、ドアが開く。降りる人を待ってから、三浦に続いて乗る。

 床とホームの間を越えるとき、一度、足元を見る。しっぽの先まで確かめようとして、身体が横を向きかける。三浦が車内の奥へ進んだので、俺もまずそこへ移動した。

 後ろでドアが閉まる音がする。振り返る必要がない場所まで来ていたと分かり、やっと息を吐けた。


「乗れた」

「うん」

「お前、すごい普通に返すな」

「電車乗っただけで拍手するのも変だろ」


 その通りだ。俺は笑い、抱えていたしっぽを少し緩める。

 窓の近くに空席が二つ並んでいたが、すぐには座らなかった。背もたれに根元を当てず、しっぽを膝へ回すには、どう動けばいいのか分からない。家なら横に台があるし、椅子を引くこともできる。ここでは隣の席へ広げるわけにいかなかった。


「立っていく?」

「ちょっと考えてる。座ってから動けなくなるの、嫌だから」


 俺は空席の前へ寄り、鞄を先に膝へ載せるつもりで身体の前に持つ。しっぽを横から前へ回すと、毛が鞄の底に潰されそうになる。

 両方を同じ場所に置こうとしているのだと気づき、思わず三浦の顔を見る。


「鞄、座る間だけ持っててくれる?」

「いいよ」


 鞄を渡したら、急に動きが簡単になった。空いた手でしっぽを支え、根元を引かないよう身体を少し斜めにして、浅く腰を下ろす。しっぽは腿の上から膝へ収まり、隣の席までは出なかった。

 家で試した座り方を、ここでも少し変えれば使えるらしい。


 座ったところで、電車が動き始める。

 背もたれに身体を預けていなかったので、俺は思ったより大きく揺れる。片手で座面の端を押さえ、足の位置を直す。三浦が隣に座り、鞄を自分の膝へ置く。


「返してもらっていい。ここなら持てる」

「降りるとき、また渡す?」

「……渡すと思う」

「じゃあ、それまで持ってる」


 俺は礼を言う。一人で乗るなら、鞄をもう少し小さくするか、腕に掛けられる位置を変えるか、考えたほうがよさそうだった。今すぐ取り返して頑張るより、今日の動きを覚えて帰ろうと思った。


 窓の外に見慣れた建物が流れていく。いつもの移動なのに、膝にはしっぽがあって、隣には俺の鞄を持った三浦がいる。

 向かいに座った人が一度こちらを見る。視線を感じて、俺の指が毛へ食い込む。けれど、その人はすぐスマホへ戻った。説明を求められることも、誰かに呼び止められることもなかった。

 次の駅で乗ってきた人も、俺の前を通って奥へ行った。

 何も起きなかったことを確かめるたび、少しずつ、窓の外を見る時間が長くなった。


「昨日の資料、あの後ちょっと見た」


 三浦が言う。俺は顔を向ける。


「俺が送ったやつ?」

「そう。引用するなら、元の文章まで見たほうがよさそう」

「ああ、途中のまとめしか読んでなかった。帰ったら探す」


 資料の話をしていると、一駅ぶんがすぐ過ぎた。俺が引っかかった段落を説明し、三浦が別の読み方をする。身体が変わる前も、こうして移動中に課題の話をしていた。

 聞き返そうとしてしっぽから手を離したら、先が膝から滑りかける。慌てて戻すと、三浦が少し口元を曲げた。


「話に集中すると、そっちは忘れるんだな」

「毎回、忘れた頃に教えてくれる。自分の身体なのに」


 しっぽを抱え直し、俺は続きを聞く。今度は片手を載せたまま話せた。


 降りる駅が近づいたところで、三浦が時刻を確認した。俺はドアが開いてから立つつもりだったが、それでは鞄を受け取る時間まで足りないかもしれない。

 停車を待って立ち上がり、しっぽを腕へ収めてから鞄を掛けてもらう。先に三浦がドアへ向かい、俺は背中を追った。

 ホームへ足を下ろしたあとで、しっぽがまだ車内に残っていないか、つい腕の中を見る。


「全部降りた?」


 三浦に聞かれ、俺は自分のしっぽの先を持ち上げて見せた。


「今、確認した」


 彼は頷きながら笑う。俺も笑ったが、初めての乗車が済んだことに気づくと、膝から力が抜けそうになった。


     *


 病院へ向かう前に、駅の外のベンチで少し休んだ。

 俺が水を飲んでいる間、三浦は地図を開いている。病院まではもう少し歩く。予約の時刻には、まだ余裕があった。

 スマホには母さんから、新しいメッセージが来ている。電車に乗れたかと聞かれ、俺は『降りた。今、少し休んでる』と返す。

 ついでに、しっぽを全部連れて降りたと書きかけて、消す。それを読んだ母さんが安心するか、余計な心配をするか、分からなかった。


 ベンチから立つときには、鞄を掛けたまま動けた。しっぽを置く場所と身体の向きが分かっていれば、手を借りずに済むこともある。電車の座席が狭かっただけかもしれないが、何が難しかったかを分けて考えられるのはよかった。


 病院の建物が見えてくると、朝とは別の緊張が戻った。

 ここまで来れば、何か分かるのだろうか。新田先生にも分からなかったことを、ここで聞いたら、今度は答えてもらえるのだろうか。

 考え始めると、歩く速さが落ちる。三浦も速度を落としたが、入口の前で俺が立ち止まるまでは、何も言わなかった。


「次の先生に、最初から話すんだよな」

「紹介状はあるけど、聞かれるとは思う」

「何回説明しても、俺が一番分かってないんだよ」


 三浦は入口の自動ドアを見てから、俺へ視線を戻す。


「起きたらこうだった、でいいんじゃない。分かってるの、そこからだろ」


 俺は鞄に手を当てた。封筒の角が、布越しに触れる。

 原因を説明できなくても、いつ変わったか、どこが痛んだか、どうすると困るかは話せる。新田先生に診てもらったことも、母さんと短パンを直したことも、今日、電車に乗ったことも、変わってから起きたことだった。


「しっぽの話、長くなるかもしれない」

「昨日までより一項目増えたな。電車」


 俺は少し笑って、入口へ進んだ。


 受付では紹介状を出し、名前と予約の時間を伝える。本人確認の書類と見た目が違うことも、こちらから話す。担当の人が確認に行く間、三浦と脇で待った。

 すぐに全部が終わるわけではなかったが、俺は鞄を開けたり閉めたりせず、必要なものを出して待てた。


 渡された用紙の連絡先を埋め、身体の変化については、持ってきたメモを見ながら書く。発症した日。耳としっぽの感覚。座り方と服の困りごと。痛むのは、挟んだり毛を引いたりしたとき。

 戻る方法を知りたいという一文も、最後に書く。


 待合室の椅子では、三浦に一度鞄を預けた。しっぽを膝へ回して座り、落ち着いてから返してもらう。電車で試したばかりの動きだった。

 隣へ座った三浦が、それで大丈夫かと小声で聞いたので、俺は頷く。


「今日は、帰りもあるからな」


 そう答えると、彼は同じように頷く。

 来られたので終わりではなく、もう一度電車に乗って帰る。帰ったら飯も食うし、余裕があれば配信もする。病院で何を言われるかは分からないが、そのあとの予定があることを、今は忘れずにいたかった。


 俺はスマホのメモを開き、配信で話したいことに一行足した。


『電車の座席は、家の椅子と違いました』


 書き終えたところで、俺の名前が呼ばれた。

 スマホを鞄へしまい、三浦へ目を向ける。彼が腰を浮かせたので、俺は一緒に来てほしいと小さく言った。

 しっぽを腕へ戻して立ち上がる。今度は鞄も、自分で持てた。

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