第12話 冷蔵庫に、三日分
母さんが買ってきた食料品を並べていると、スマホへ三浦から追加のメッセージが届く。
『調べるところ、あとで一回合わせたい。明日、通話できる?』
俺は明日の時間割を確かめかけて、今はそのとおりに大学へ行けると決まっていないことを思い出す。病院からの連絡もまだだったので、午後なら今のところ空いていると返す。
母さんは袋から野菜を出しながら、何の連絡だったのかと聞く。
「課題。明日、三浦と分担の確認する」
「家でできそうなところ、あった?」
「少し読んだ。担当のところは、たぶん調べられる」
母さんはよかったねと言い、卵のパックを俺へ渡す。昨日持ってきてくれた分もあるので、冷蔵庫にはずいぶん増えることになる。
パックを入れたあと、残りの食材を眺める。野菜に肉、それから牛乳。パンは、俺が朝食に困らないように買ってくれたものらしかった。
「これ、全部食えるかな」
「今日と明日で全部食べるわけじゃないよ。何回かに分ければいいでしょう」
いつもなら適当に買って、なくなったらまた買いに行く。今はその『また買いに行く』のほうが、簡単ではない。
母さんが一度に持ってきた量にも、理由があるのだろう。袋を畳むと、その下から帰りの乗車券が出てきた。
「明日、帰るの?」
聞くと、母さんは少し迷ってから頷く。
「夕方のつもり。もう一日いるか考えたんだけど、ずっとこっちにいるのも難しいから」
「そっか」
昨日は実家へ帰るかどうかの話をして、ここにいたいと言った。だから母さんが帰るのも、当然の流れだ。それなのに、時刻の入った券を見ると、少し落ち着かなくなった。
最初の夜はひとりで過ごしたし、三浦が帰ったあとも部屋で暮らせている。母さんにいつまでもいてほしいと言うつもりはない。
ただ、困ったときに聞けば、すぐ振り返ってくれる人がいなくなる。それを、あと一日で受け入れなければならなかった。
「帰る前に、何をしておきたい?」
母さんに聞かれ、俺は机の上の短パンを見る。ここを直してほしい、あれを買ってきてほしい、と頼めることはいくつもある。
でも、全部頼んで済ませても、母さんが帰ったあとに別のことで困るのだろう。
「明日、俺が一通りやってみる。着替えと、飯と、洗濯。分かんないところがあったら、そのとき聞きたい」
母さんは手に持っていた袋を畳み直し、それならそうしようと答える。先に全部教えてくれとは言わなかったことに、少し驚いているようにも見える。
*
短パンは、夕飯の前にもう一度直す。
座ると腰の布が浮いていたので、母さんは俺が屈んだり座ったりするところを横から見て、留める位置を少し変える。位置が違うだけで、しっぽの上の布が引っ張られにくくなる。
ただし、すぐ縫い直すのではなく、まず試した形で確かめる。どこが嫌かは俺が言い、どう直すかは二人で考える。母さんが全部見ていれば分かるわけではないと、昨日から少しずつ分かってきた。
「こっちは大丈夫。ここの端が、動くと毛を引く」
指で示すと、母さんはその部分を開く。もう一度しっぽを動かし、当たらなくなったことを確かめる。
最初は身体のどこが気になるのか、言葉にするのも難しかった。今は少なくとも、布を引っ張られたのか、根元が押されたのかくらいは区別できる。
直した短パンで夕飯を作るのを手伝うと、立ち続けても腰が下がらなかった。冷蔵庫から野菜を出すために屈んでも、しっぽを中へ押し戻さずに済む。
嬉しくなって母さんへ話しかけた途端、後ろで空の袋が音を立てた。しっぽの先が引っかかったらしく、床へ落ちている。
「服は直ったけど、俺のほうはまだだな」
袋を拾うと、母さんは手元の野菜を置いて笑う。
「今度は、そこの袋をよけておこうか」
俺はゴミ箱の位置も少し変える。しっぽをずっと意識して動かすのは難しいが、ぶつかるものを減らすことならできる。
まな板へ戻って人参を押さえると、昔から持っている包丁の柄が少し大きく感じた。持てないほどではなかったので、急がず薄く切る。母さんも今日は、隣で見ているだけだった。
夕飯は野菜と肉を炒め、ご飯と一緒に食べる。煮物も残っていたので少しずつ分ける。母さんが部屋で夕食を作ってくれたあとを、俺が順番に手伝うだけではなく、今日は自分ができるところから始められた。
食べ終えるまで短パンがずれなかったので、しばらく部屋着として使ってみることになった。外で使うにはまだ心配だが、室内で毎回腰を気にしなくて済むだけでも助かる。
母さんが宿へ戻ったあと、俺は三浦へ明日の通話時間を返す。それから、パン屋でトレーを持つためにしっぽを上げる練習も少しした。
机からペンを取るだけなら、先を浮かせたままできることがあった。スマホへ文字を打つと、まだすぐ下がる。
よくなったところと、変わらないところがある。今日中に慣れようとするのはやめ、腰の後ろが疲れる前に椅子へ戻った。
*
翌朝、着替えで最初に困ったのは、服の数だった。
今の身体に合うTシャツは一枚だけで、今日は洗いたかった。大きな以前のTシャツを着ることはできるが、袖が長く、家事をすると裾もしっぽへ引っかかりやすい。
短パンも、直した一枚を洗濯すれば、その間はまた別の服で過ごすことになる。
母さんが来たときには、俺は古いTシャツを着て、洗濯機の前で服を分けている。
「これ洗って、乾くまで着替えとくしかないよな」
「うん。もう一組あったら楽だけど、今あるので回すなら、そうなるね」
服が着られるようになったら終わりではなく、洗って乾かす間の服も要るらしい。俺はスマホの買い物メモへ『もう一枚、Tシャツ』と入れる。昨日より何を買うか迷わずに済んだ。
短パンの留め方を母さんへ確かめ、洗う前に外せる部品を外す。作りが分かっていると、何をどうしていいか全部聞かずには済む。
朝食は自分で用意した。母さんは台所へ入りかけたが、俺が皿を出しているのを見て、机のほうへ戻った。
野菜や肉を全部今朝使うのではなく、先にパンと卵を食べ、残りは昼と夜に分ける。母さんにも同じものを出すと、量が違うのかと聞かれる。
「俺、昨日もパン半分残したから。これで足りなかったら、あとで食う」
母さんは頷く。以前の俺と同じ量を無理に食べる必要がないことは、二人とも分かってきたようだった。
食器を洗い終えた頃、病院から電話が来る。
俺は手を拭き、母さんへ目で知らせてから通話に出た。昨日まで何度も着信がないか見ていたのに、実際に鳴ると、最初の返事が少し遅れた。
電話は新田先生からだった。状態について相談した先で、まず診察を受けられるよう調整できたという。紹介先へ行ける日時を聞かれ、俺は机のメモを見る。
翌日の午後に行くことにして、紹介状を先に受け取る段取りを聞く。名前、場所、持っていくものを一つずつ書き、分からないところは聞き返す。
電話を終えると、母さんが椅子の横へ来ている。
「どうなった?」
「次に診てもらうところ、決まった。明日の午後」
「……じゃあ、私、もう一日いたほうがいいね」
母さんはすぐに鞄へ手を伸ばす。帰りの券を変えるつもりらしい。俺はその手を見て、少し考えてから声をかける。
「待って。場所だけ見てから」
調べると、次の病院は歩いて行ける距離ではない。電車で移動し、そのあと少し歩く。地図を見た瞬間には、やはり母さんへいてもらおうと思った。
ただ、俺はこれから受診するたび、母さんを呼ぶことになるのだろうか。そのことも、一度は考えておきたかった。
「ひとりで行くって言ってるんじゃない。まず三浦に聞いてみる。来られなかったら、母さんにも相談していい?」
母さんは画面の経路を眺め、少し不安そうにした。近所まで歩いたときと、駅へ行くときでは、困ることも違う。
俺も分かっていたので、どの道なら人が少なそうかではなく、途中で立ち止まれるところがあるかを先に見る。待合室で座るときのため、タオルもまた持っていく。
「三浦くんにも都合があるからね」
「うん。無理なら、無理って言ってもらう」
メッセージを送ると、少しして返事があった。明日は講義のあとなら来られるという。病院の時間を伝えたところ、待ち合わせを少し調整すれば間に合いそうだった。
付き添ってもらうことを頼み、まだ紹介状を受け取る必要があることも伝える。母さんへ返事を見せると、ようやく鞄から手が離れる。
「じゃあ、駅までの道も、確認しておこう。今日、私と歩いてみる?」
俺は洗濯物を見る。外へ着ていく服が乾くまで、少し時間が要る。でも、今日のうちに試すことはできそうだった。
「行く。服が乾いたら」
昨日、できるところを試すと言ったのは、家事のことだった。そこへ新しい病院の予定が入り、また外へ出る準備が増える。
全部が整ってから次が来るわけではないらしい。それでも今は、何が足りないかを、昨日より早く考えられた。
*
午後は、短く三浦と通話して課題の分担を確かめる。
授業の担当者からの返事はまだだったが、読める資料を先に読んでおくことはできる。俺は調べた部分を共有し、次に確認したいことをメモへ残す。
三浦は話の途中で、俺が前より文字を打つのが遅いことに気づく。キーの間隔が違って感じると答えると、画面の拡大ではどうにもならないか、と二人で少し笑う。
以前と同じ机で、以前と同じ作業をすることにも、まだ調整が要った。でも、話している内容は課題だった。身体のことを説明し続けなくていい時間が、思ったよりありがたかった。
洗濯物が乾いたあと、母さんと外へ出た。駅までの道を途中まで歩き、横断歩道と、休めそうな場所を見て戻る。明日の移動を全部試したわけではないが、少なくとも部屋から駅へ向かう最初の道は確かめられた。
帰ってしばらく休んでから、母さんは宿へ荷物を取りに向かった。帰りの列車には予定どおり乗ることになった。
見送りに行くか迷ったが、もう一度同じ道を歩く余裕はない。玄関で鞄を渡し、明日、出かける前と帰ってから連絡すると約束する。
「冷蔵庫、上の段にあるの、先に食べてね」
「分かった。袋にも書いてある」
「買い物は、残りがなくなる前に考えて。困ったら、送ることもできるから」
俺は頷く。母さんは耳としっぽへ一度目を向け、それから俺の顔を見る。
「ちゃんと助けを借りてね。ここに残るって、何でも一人でやるってことじゃないから」
それは昨日までなら、少し反発したかもしれない言い方だった。今日は三浦へ付き添いを頼んだばかりなので、素直に分かってると答えられる。
扉を閉めたあと、俺は冷蔵庫を開ける。食べ物の袋に母さんが短いメモを書いている。いつもの字だった。
少なくとも何日かは、これを見ながら自分で用意できる。足りなくなったら買うか、頼むかを考える。そのところまで全部、母さんが今日やっていく必要はない。
机へ戻り、明日持っていくものの一覧を作った。タオル、財布、水、書類。紹介状は、近所の病院で受け取ってから鞄へ入れる。
次の診察で何が分かるかは、まだ考え始めると落ち着かない。俺は一覧の横へ、次の配信で話したいことも書く。
『短パンで、家事ができました』
その下に、もう一行足す。
『着替えは、洗っている間の分も要りました』
今日は配信を始めず、配信用のSNSへ翌日の夜を目安に告知だけ出すことにした。診察から帰って、疲れていなければ。難しかったら延期すると、短く添える。
いつも急に始めていたので、ねじまきや糸日和が来るかどうかも分からなかった。時間を先に知らせれば、相談を聞ける人にも少しは都合を合わせてもらえるかもしれない。
予定を書いてから、部屋着の短パンへ着替えた。しっぽを外へ出し、腰を留める。夕飯のために台所へ立ったとき、裾や腰を直す必要がなかった。
玄関に母さんの靴はもうなかったが、冷蔵庫には食べ物があり、身体には着て動ける服があった。俺は上の段の袋を取り出し、まず今夜のご飯から始めた。




