おばけと綿毛・3
毛むくじゃらの白い半身が起き上がり、赤い血がべったり付いた口が開かれると、サメのような牙が見えた。
次は私だ。
体温が上がり、体の芯が冷たくなる。口の中がピリピリする。
ねばついた、熱気を帯びた死の影が、私の全身を締め付ける。
――逃げなさい。
少し低めの、柔らかい声が私を覆う。
――どこか、遠くへ。
血塗れになった白い獣が赤い目を輝かせ、一歩、近付く。
二歩。
三歩。
ふと、右肩が重くなった。焼けた石が乗っているように熱く、震えている。
同時に体の麻痺が消えた。
――逃げなさい。早く。
けれど、私は逃げられない。
いいえ。
逃げたくない。
◇
シリアルの箱をひっくり返す。ザァザァ、と土砂降りの音がお皿に響き、瞬く間にフレークの黄色い山が出来上がった。
今回のシリアルはこれでおしまい。帰りに新しいものを買ってこないと。
スマートフォンを机から取り上げ、メモ帳アプリを起動した。ニュースが途切れる。『買うリスト』というタイトルのメモを開き、リストの1番上に"シリアル"を追加した。
アプリを閉じ、ニュースを再開。交通情報や各地の天気を読み上げるのと同じトーンで、男性のアナウンサーが入学シーズンについて語っている。
入学。
スプーンでシリアルを掬いしな、壁にかけられた制服を見る。灰色のブレザーは鼻先を突くようなにおいを放ち、いまだにこの家に馴染まない。
今日から高校生。実感は、全然ない。
私立桜台高等学校、縮めて桜高は電車で三駅先にある。県立高校の滑り止めとして受験する生徒が多い。地図のレビューには、「偏差値は平均よりも高いが、治安はあまり高くない。落伍者の巣窟である。行き場を無くした異類が多く在籍」と、書かれている。
噂が本当かは分からない。けれど、桜高は異種籍生徒の割合が県内で最も高い。学校の公式サイトに特定異類特別対応委員会のページが用意されているのも、県内ではここだけだ。
私は桜高を第一志望に選んだ。あまり勉強が得意でない私にとって、桜高のハードルは高い。家事の合間を縫い、必死に勉強した。受験の手続きに時間を取られるのが嫌だったので、第二志望は選ばなかった。
陸上の特待生として入学する手段もあった。顧問の先生は「あなたの為にあるような制度でしょう」と、特待生になる案を強く推していて、手続きは先生がやっておきますから、と、秋ごろには私を推薦する一歩手前まで行ってしまった。くしゃくしゃの志願書を抱え、半泣きになって職員室に駆け込まなければ、その一歩は簡単に踏み出されていたと思う。
部活に入ると自由時間が大幅に減ってしまう。それだけは、絶対に避けたかった。
◇
「やあ。おはよう、紗夜」
駅前十字路を通り、桜高まで続く片側二車線の道を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう」
振り返らずに返事をする。
「つれないなぁ。同郷じゃないか。これから未知の世界が待っているんだよ。もっと身を寄せ合って生きていこうよ」
「それだけじゃないでしょ? 私に構う理由」
「まあね」
そう言って、明るい色のウルフカットを傾けながら彼女は笑う。宮川琉璃音。同じ中学の元サッカー部。高校では陸上部に入る予定らしい。
私と宮川さんは確かに同じ中学出身だ。でも、当時の私たちは異なるレイヤーの中で暮らしていた。
あちらは陽気な青春レイヤー。こちらは陰気な独走者レイヤー。私たちのレイヤーが重なったのは桜高の合格発表があってからだ。宮川さんは中学最後の一ヵ月、学校にいる間じゅう、ことあるごとに私の前に顔を出すようになった。
「入らないからね」
彼女の魂胆は分かり切っている。
「ねえ、紗夜。ノブレス・オブリージュって言葉は知ってる?」
「知らない」
「高貴なる者の義務。もったいないなぁ。君には類まれな素質があるのに」
「私は別に高貴じゃないし、素質を生かすつもりもない。中学で陸上をやっていたのも、ただ必要だったから……」
「必要? 何に?」
「……なんでもない」
いつもそう。
宮川さんと話していると、だんだんと、私のテンポがずれていく。
頑丈な戸棚が開くたびに緩んでいくように。鍋いっぱいに張った水が蒸発していくように。
宮川さんと居ると、絶対に隠さなくてはならないものが、少しずつ露わになっていく。
「ふうん? ま、いいや」
宮川さんはようやく私から視線を外した。
諦めたのか、駆け引きか。
「お? タンポポ?」
宮川さんのほうをちらりと見る。
道路の反対側、キャベツ畑の近くで、タンポポの綿毛のようなものが浮いていた。
でも。
「……大きすぎじゃない? あのタンポポ、手のひらくらいある」
「三倍体かもね。畑に落ちて咲いてくれたら見ごたえがあるだろうけど、そうなると咲く前に畑の持ち主にやられちゃうかな」
「うん。あそこはキャベツの場所だから」
「可哀そうに。せっかく恵まれた体を持って産まれてきたのに、披露する場所を与えられないなんてね。……そうだ! ねえ、紗夜。次の土曜日、一緒に植物園へ――」
「行かない」
あまりにも露骨な好感度稼ぎ。
それを一切隠そうとしない点は好きだけれど、今の宮川さんとは親密になりたくない。
彼女には彼女の、私には私の目的がある。友情の鎖で縛られるわけにはいかない。
少なくとも、今は、まだ。




