32 秘密の部屋
遠くに承香殿が見える。顔を出せば弘徽殿も見えるこの場所は、東宮から言われた麗景殿の一室にある。
女房が使う局だが空いていた部屋に籠り後宮内の人の動きを何となく見ていた。
香奈が聞いてきたのは、麗景殿から出なければいいという言葉に、頭中将が式部卿の北の方、桜子に会いに行っていたため、兄の良智を呼び出して確認した。やはり、麗景殿の中であればどの部屋に居てもいいということらしい。言質はとったとほくそ笑んだが、良智からは驚きの言葉が出てきた。
「東宮様から簀子縁で寝ないようにと言われたけど、もしかして後宮の簀子縁で昼寝なんかしていないよね」
「な、なんのことかしら?」
綾は慌てて扇で顔を隠してすっとぼけた。
「はぁ~」
大きく肩を落として項垂れる兄を見ると申し訳なくなる。扇から目だけを出して様子を窺う。
「綾、何度も言うけど、もうすぐ父上は左大臣になられる。あまり評判を落とすようなことは避けてくれよ」
「遅いわよね。いつもならもう発表があってもいいくらいなのに」
話題を変えるつもりで返事をした。
確か通常なら秋の除目は先月に行われるはずだった。それがこんなに遅くなるのは何か理由でもあるのか?
「藤壺の襲撃や柾良親王様のご祈祷と重なっていたのと、皇太后様が人事に注文を付けられて、おまけに右近中将殿は亡くなられてちょっとした騒ぎになっていたんだよ」
「右近中将が亡くなった? どうして」
「頓死だって話だよ。ご家族が朝、起こしに行ったら既に亡くなっていたらしい」
「頓死って。右近中将っていくつよ」
頓死って心臓発作か何かで突然、亡くなることよね。そんなに年は取っていないはず。
「御年二十三って言ったかな。右大臣様の三の姫と結婚したばかりだったのに」
四の姫じゃないことに少し安心する綾。
自分が返事を書いた人でないことで安堵のため息が出る。人が噂するのを気にしないわけではないが、それでも少しでも関りのあった人が不幸になるのは見たくない。
それにしても二十三で頓死っておかしくない?
「藤壺の襲撃に使われた門が右近中将の担当部署だったのがやはり堪えたと思うよ。帝はそこまで気にしなくていいと仰っていたらしいけど、ずっと謹慎されていたから」
秋の除目は皇太后が自分の意を組んだものにしたいがため、いろいろ口を出していたそうだが帝はそれをことごとく跳ね除けていたようだ。そんな時、右近中将が亡くなりその後任人事が難航していたようだ。
今回の除目は今まで太政大臣を務めていた藤原兼光が退きその後任に承香殿女御の父、現左大臣がおさまることになった。
綾の父の藤原道良は心太のように空席になった左大臣になることが決まっている。
父様も出世したのね。
そのためか兄は何度も綾に評判を落とすようなことをするなと言い残して帰っていった。
綾が今いる部屋は女房の局で表向き女房が体調を崩して休んでいることになっている。その為、綾は女房姿でこの部屋に籠っている。
蔀度は上半分だけ開けて御簾を下ろし更に几帳を幾重にも置いた。
時折、几帳の隙間から覗き見ると弘徽殿への訪れが多くその理由は承香殿女御の父が太政大臣になったことと、綾の父が左大臣になることが決まって東宮が安泰と取られての挨拶が増えたと兄が言っていた。
承香殿へも何人か訪れているのを見てどちらかに肩入れしないようにとの策を講じている者たちだと悟った。
綾はとりあえず、傍にいた護衛に確認しながら弘徽殿と承香殿を訪れた者たちの名簿を作り始めた。
兄はなぜか桜子からの文を持ってきた、橘時平を綾の籠っている部屋の外に護衛として付けたのだった。
何か企んでいるのなら仕掛けてくるだろうからと、綾を囮にしている様子に綾は眉間に皺が寄った。綾の傍には薙刀と懐には短剣、そして香奈が置いていった沢山の脇息に囲まれている。
午前中の訪問者を記入し終わると午後からはほとんどと言って人の動きはなくなった。その為、綾はうつらうつらと睡眠を貪っていた。
時々、綾のいる部屋の前を通る者もいるが大抵が隣の宣耀殿に用がある者らしく綾がいる部屋の前を素通りするだけで特に変わったことはなかった。
兄の言うように時平が何か仕掛けてくるかと気になっていたがどうやら取り越し苦労のようで二日目は前日と同じように弘徽殿と承香殿、更には皇太后が住まう常寧殿への訪問者も教えてくれるようになった。
午後からは人の訪れもなくなったので、またいつものように昼寝を楽しんでいた。
どれくらいの時間眠っていたのか分からないが、ふと視線を感じて綾は寝たまま薙刀に手を伸ばし薄目を開けた。
部屋の外の簀子縁で公達が佇んでいるのが見えた。その視線の先が綾に向かっていることに気づき、音を立てないでゆっくり起き上がる。
誰?
外からは中の様子は見えないはずだ。こちらの動きは気づかれていない。綾は几帳の陰に隠れてそっと体制を整える。
心の臓が早くなってくる。外の護衛も公達に気づいているようで、警戒しているのが分かる。しかし、その公達は何事もなかったかのようにその場を離れた。




