19 華の宮
承香殿の読経はかなり遠くまで響いている。弘徽殿の横を通り過ぎるとき、女御様の部屋の方を見るが、灯りは消されて殿舎すべてが静まり返っている。
弘徽殿女御は約束通り綾たちがここを通るのを見なかったことにしてくれているのが分かり少し安心する。
藤壺に行くには一度清涼殿付近までいかなければならないが、その先で中務卿が立っているのが見えた。綾と結月は小さくお辞儀をして、そのまま歩いて藤壺まで行く。途中、例の護衛もいて、おそらく東宮か中務卿が手配してくれたのだと思った。あの侍女はまだ見つかっていない用心に越したことはない。綾も気を引き締めて進む。
今夜のことを伝えるときに兄が書いた人相書きを渡している。中務卿も見たことがない者だと言っていた。その為、警護が厳重にしかれているのだろう。
藤壺の殿舎まで来ると、部屋の外に女房が一人立っていた。
「こちらです」
言葉少なめに部屋の中へと招き入れてくれた。おそらく、この女房が藤壺女御の侍女頭、桐子だろう。
部屋には藤壺女御と桐子の二人だけであらかじめ人払いをしておいてくれたようで綾としてはありがたかった。今夜のことは出来るだけ内密に済ませたかったから。
綾と結月は並んで座った。ここでは結月にもしっかりと見ていてほしいと思っていたからだ。
「急なことで、大変申し訳ございません」
綾が謝ると藤壺女御は綾と柚木を交互にみた。
「もしや、結月殿? ということはこちらの方がとう……」
「高子です」
綾は急いで言葉を遮った。東宮妃である自分がこんな夜更けに藤壺に訪ねていたとなるとあらぬ噂が出かねない。
華やかで花が咲き誇るような美しさから華の宮と謳われた面影はなくやせ細り、目もくぼみやつれた女性が綾を見る。かなりの心労がたまっているのが分かった。
「本日は、中務卿の侍女、高子としてきております」
これから話すことは本来、自分が聞いてはいけない内容だと思うが、他の者に話すことも憚られて綾が直接確認に来ている。
「それで、お聞きなりたいこととはなんでしょうか」
綾は一度結月を見る。結月が頷いたのを確認してもう一度、藤壺女御を見た。
一度大きく息を吸い、話す。
「常茂という者に会いました……」
直後、ガタンと言う音とともに藤壺女御の横にあった脇息は倒れ、藤壺女御は手で口元を覆う。
「女御様!」
すぐさま、女房の桐子が藤壺女御の体を支えた。
どんどん顔色が悪くなる藤壺女御を見て、心が痛んだが、これだけは聞いておかないといけないと綾は心を鬼にして藤壺女御に近づいた。
「直貞親王様は藤壺女御様と常茂との子だと言っておりました」
「いつ、そんなことを聞いたのです?」
桐子がものすごい剣幕で綾に詰め寄る。結月が綾の前に出て庇おうとしてくれた。
カタン。と部屋の外で音がした。
たぶん、何かあればすぐにでも動けるという合図だろ。
桐子は声をあげるのを止めた。その代わり、目を真っ赤にして綾を睨みつける。
綾はもう一度大きく息を吸い、心を落ち着かせる。
結月は元の場所に戻り座りなおしている。
「本当のことをお聞かせください」
「本当のことですって。それを信じるというのですか!」
桐子は今にも倒れそうな藤壺女御を支え言う。
「私が知っていることは、藤壺女御様がご懐妊されたとき、あの者は都にはいなかった。違いますか?」
「直貞親王は帝の子です。これは間違いありません」
藤壺女御が綾を真っ直ぐ見て言う。
やはり。それなら、もう一つのことは……。
「常茂はここに来たのではないですか?」
綾の言葉に藤壺女御と桐子は動揺していた。
「先日、この先の庭で常茂を見かけました」
綾は少しの情報を与える。これで話してくれるだろうか。
「常茂は他家の使用人でした。どこで目にしたのか、華の宮様に懸想したと文を送ってくるようになったのです。そのうち、その家が御取り潰しになったことで兵衛督家に仕えるようになったのです。そこから事あるごとに華の宮様に近づいてきて、困り果てた兵衛督様が常茂を安芸へ、華の宮様を後宮へお入れになったのです。ところが半年程前に突然、常茂がやってきたのです。私たち侍女で何とか追い返したのですが、二月前には安芸介を突然止めてまた後宮へ来るようになったのです」
「常茂はどうやってこの後宮に入ったか分かりますか?」
「協力者がいると言っていました」
協力者は中納言だろうか。桐子はそれ以上詳しく知らないみたいだし。
「藤壺女御様は何かご存じではないですか?」
「分からないのです。いつも、突然来て……」
急に思い出したのか息が荒くなっている。顔色もどんどん悪くなってきていた。
きっと、常茂が来た時のことを思い出したのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
綾は心配になってくる。
「常茂が来たときはいつもこうなるのです」
「医者には見せましたか?」
「言える訳がないじゃないですか」
桐子が涙声で訴える。
「もう一つ、物の怪の騒ぎはもしかして常茂を追い返すためですか?」
「そうです。それしか私たちは方法がなかったのです。どうか、信じてください。女御様は不貞などしておりません」
桐子は必死に訴える。
「帝を裏切ることなどしていません。どうか信じてください」
藤壺女御も胸に手を当てて訴えてくる。
「分かりました。常茂はもういません。それに、直貞親王様は私がお預かりしています」
藤壺女御は顔をあげて綾を見る。肩で息をしながら手を伸ばしてきたのでそれを握り返した。
「直貞親王様を連れ出した女房がいます。この者に見覚えはありますか」
綾が言うと結月が懐から一枚の紙を取り出した。
「見たことないです」
藤壺女御はそこに書かれた人相書きを見ている。
「貴方はどうですか?」
桐子にも聞いてみた。
「ありません」
綾は結月を見た。結月は少し考えて首を横に振った。
「近いうちに直貞親王様をお返しにあがります。ですが、直貞親王様を攫った女房はまだ見つかっていません。気をつけてください」
「わかりました」
「華の宮様、明日にでも医師をこちらに向かわせます。お体をしっかりと直してください」
結月が藤壺女御に伝えると藤壺女御はその場で泣き崩れた。




