18 お忍び
逃げるように帰っていく兄の後姿をみて、どうにも落ち着かない気持ちを抱えていた。
目の前では香奈が茶器や茶菓子をいそいそと片付けていて、結月はいつの間にか奥の部屋へ行ってしまった。
手持ち無沙汰で脇息を抱えたまま外を眺めていると例の護衛の姿が見えた。
綾は大きなため息をついた。
(不貞を働いたことになるだろうか。不可抗力よね)
例の護衛は一瞬こちらを見たような気がしたが、すぐ仲間の護衛に話しかけてすぐその場を立ち去った。
綾はもう一度ため息をつく。
「あらあら、ため息なんかついて」
結月が赤子を抱いて綾の元へと来ると、綾の傍に赤子を置いた。
この赤子は綾があの火事場から一緒に連れてきた直貞親王だ。
「やっぱり、姫様の近くだと嬉しいようですね」
赤子は綾の袖をもって必死に立ち上がろうとしている。頑張っている表情を見せるが時折笑顔を見せてくれる。
綾も何となく懐かれているようだと思っていたが、他人から言われるとやはりそうなのかと思い直していた。
「今上帝というよりはどちらかというと東宮様の幼いころによく似ていらっしゃいますね」
「東宮様に似ている?」
「ええ、目元なんかそっくりです。東宮様と東宮妃様のお子様もかわいらしい子が産まれますわね」
もし、綾に子が出来たらこんな感じなのかと赤子をじっくり見た。
(東宮様に似ているのか……)
大きな目で綾を見つめる。瞳に綾が映っている。こんなかわいい子が出来たらいいなと考えてから我に返った。
「あの、結月様。その……。実は東宮様のお渡りはないのです。これからもないのではと思っています。ですからお子は……」
「存じていますよ。しかし、東宮様はご事情があって東宮妃様の元へお尋ねになれないのです。ゆっくり待ちましょう。必ず、きっと東宮様は姫様の元へ来られますから」
結月は満面の笑みで言う。
「私は東宮様の立場を守るために東宮妃になったと思っているのですが、違うのですか?」
事情があるというのは綾を傷つけない言葉だと思っていた。これだけ後宮に問題があるのだから、はっきり聞いてもいいのではないか、そんな思いを抱えていた。
結月は驚いた表情で綾を見ている。
綾はほんの少しの笑みを見せた。どんなことを聞いても大丈夫と自分に言い聞かせるために。
「少し、お待ちになって」
結月は赤子を奥の部屋に連れていき寝かしつけているようだ。
しまったと後悔した。この話はいくら言葉が分からない子供の前でも話してはいけない内容だ。その間に、香奈が綾と結月の為にお茶を用意してくれた。
「お待たせしました。先ほどのお話の続きをしましょう」
そういうと結月は綾の手を握ってきた。
「しっかりとお聞きになってくださいね。綾姫様を東宮妃にと望まれたのは他でもない東宮様ご本人です」
「ですが、後宮に来てから一度もお会いしていません」
「それは帝とのお約束があるからです。皇太后様は東宮妃に右大臣家の姫を望まれていたのです。帝も反対する理由もなく話が進んでいたのですが、東宮様はあまり乗り気ではなかったご様子で。そんな時、あの呪詛札が見つかり東宮妃様もご存じの通り、後宮ではちょっとした騒ぎになっていました。その時、東宮様が大納言家の綾姫様を東宮妃にと望まれたのです」
「東宮様が、どうして?」
「綾姫様なら今の後宮の出来事も正しいものへと導いてくれるだろうからと仰っていました」
「正しいものへ? 私、東宮様に何かしましたか?」
綾にはそういってもらえるようなことは何もない。何かの間違いではないかと思う。
「いいえ、東宮様はご自分の目でしっかりと綾姫様をご覧になっておられた様子」
綾は記憶にない。人違いではないか?
結月は綾が何も思い出せない様子を見てさらに話をつづけた。
「昨年の葵祭に綾姫様はいかれましたよね。その時のことを東宮様がご覧になっていて、東宮妃にはぜひとも綾姫様をと帝を説得されましたの」
葵祭は確かに行った。綾はひっそりと見に行くつもりだったが観衆がことの他多く、人が溢れかえっていたのを覚えている。それがどうして東宮妃にという話になるのか不思議だった。
「皇太后様の希望で決まりかけていた東宮妃を白紙に戻し、新たに別の姫を選びなおすことにした帝は東宮様にある命を下されました」
「命?」
「今ある後宮の問題を解決せよと。でなければ大事な綾姫の命も狙われるやもしれないと」
「まだ、解決していませんね」
現状、柾良親王は病に倒れたままで、藤壺女御様は寝込んでいる。さらに、直貞親王は人攫いにあった。何一つ解決していない。
「解決していませんね」
のんびりと言う結月は更に爆弾発言をした。
「解決しないことには綾姫様にお会いしてはいけないと帝に言われているのです。東宮様がお可哀そうですわ」
頬に手を当てて憂い顔で結月は言う。
(私もお可哀そうですよ)
心の中でつぶやいてみる。
んん?
「ということはこの問題が解決しないことには私は東宮様にお会いすることはないのですか?」
「そういうことになります」
「そんなぁ」
へたりとその場に崩れ落ちた。
他に思う姫がいる訳でもなく、立場を守るためでもなく、綾を望んでくれたのは嬉しいが、このままではずっと会えないままだ。
綾は問題解決に動くことにした。
「結月様、香奈。ちょっと」
綾は二人にいくつかの頼みごとをした。
快く引き受けてくれた二人は早速準備に取り掛かった。
先ずは弘徽殿女御のところへ挨拶に行く。
衣裳係が綾の着替えを手伝ってくれる。その間に口上を考える者が挨拶文を用意してくれた。
「このような挨拶でどうかと」
渡された紙を見て、綾は挨拶を頭に叩き込んだ。
「姫様、連絡が来ました。お話は通しておくとのことです」
結月には中務卿に連絡を入れてもらっていた。あることを頼むために。
その連絡がきたということは、予定通りことを進めるだけだ。
「準備出来ました」
衣裳係の言葉を合図に、香奈を連れて部屋を出ていく。
途中、承香殿から物々しい雰囲気で読経の声が聞こえてきた。三日三晩行われると聞いている。それも今夜が最後だ。綾と香奈は横目に弘徽殿へ向かった。
久しぶりの弘徽殿で、更にこれからやろうとする内容は女御様の機嫌を損ねかねない。
緊張した面持ちで弘徽殿に到着すると女御様は綾の心配をしてくれた。
「よかったわ。元気になったのね」
「はい。おかげさまで。女御様にはご心配をおかけしました」
綾の前にお茶と茶菓子が置かれると周囲にいた侍女たちが一斉に下がっていった。
弘徽殿女御と侍女頭の三葉、綾と香奈だけになった。
「心配したのよ。もう大丈夫なの?」
「はい。足を少し怪我しましたが、もう治りました」
中務卿から弘徽殿女御には綾が後宮から連れ去られたと話をしてあると聞いていた。
そのおかげで話はスムーズに進む。
「よかった。貴方に何かあったら由比に顔向けできないところでした」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいのよ。ところで、何か用があってきたのではないのかしら」
綾は目を閉じた。なんといわれるか。意を決する。綾は弘徽殿女御を見た。
「今宵、この殿舎の傍を通りたいのです。出来れば内密に」
「そう。誰も通らなかったことにすればいいのね」
綾ははっとした。そう、誰も通らない。そう思わせたいのだ。
「三葉、今夜は侍女たちに部屋から出ないように伝えておきなさい」
「ですが女御様、何か聞かれたらどうしましょうか」
「それは、承香殿で祈祷をしているからとでも言えばいいわ」
「分かりました」
三日三晩の祈祷の最後は盛大に行われる。それを邪魔するものはよくないとされる。侍女たちも部屋から出ることはないはずだ。
「これでいいかしら?」
いたずらっ子のように笑う弘徽殿女御に綾はお礼を言った。
「ありがとうございます」
部屋に戻った綾は一度着替える。
「東宮妃様、本当に私が行くのですか?」
結月が聞いてきた。
この後、藤壺へ行くつもりだ。その時一緒に行くのは結月に頼んだ。
「一緒に見極めてほしいのです。ことは重大です」
綾は自分だけでは不安だったので結月に協力を頼んだ。
「結月様、私からもお願いします。このことは私では難しいです」
香奈からも言われて、結月は納得する。
夜も更けたころ、綾と結月は落ち着いた侍女の服装に着替えた。
「行ってくるわ」
香奈に告げ、綾と結月は麗景殿を出て読経の声が響く承香殿から身を隠すように、弘徽殿の横を通りすぎ藤壺に向かった。




