その2
化け猫騒動は、なおも続いていた。
そして、村に出没する猫と町に出没する猫は、同じらしい。
「つまり、1匹があちこちさまよっているということなんだが」
そこで、大天狗は言葉を切った。
目の前には、九尾がいる。珍しく彼から天狗の山に出向いてきたのは、化け猫がこのふもとの村に出るからだ。茶を飲みながら話でも、と招き入れると、九尾は億劫そうに縁側に体を横たえた。
「寄る年波には勝てんな、九尾。そろそろ引退したらどうだ」
大天狗が茶をすすめると、九尾はゆっくり起き上がり湯飲みに口をつける。
「美味いな」
「うちのが淹れたからな」
「惚気か」
「そう言わないとあとが怖い」
なるほど、と九尾がもう一口茶をすすると、烏天狗が、小さな天狗を抱いて縁側にやってきた。
大天狗の、妻と子供である。
よしよし、と九尾が手を伸ばすと、小さな天狗はおとなしく体を預けてきた。
九尾の子供たちは、既に成獣になり、あちこちで好き勝手過ごしている。そして、もう何年も子は作っていない。
「九尾様は、正妻を娶らないの?」
烏天狗が、微笑して言う。狐の長の色男ぶりはかなり有名だが、少なくとも大天狗や烏天狗が知る限りは、正妻を持ったことはないはずだ。
「一人に絞れたら良いんだがな」
煙に巻いて話を終わらせようとした九尾だが、あら、と、間髪を入れずに烏天狗が言う。
「凛がいるじゃありませんか。そのつもりでずっと手元に置いているんでしょう?」
ああ、と九尾はわざと素っ気なく言う。
「あれは、娘だ」
「実の娘を、あんなにずっと傍に置いたことはなかったでしょうに」
参ったな、と、今度は頭をかいた。
しかし、照れというよりは困惑だ。
「妻にしようと思って育ててきたわけじゃない。しかし、そもそも娘にしようと思って拾ったわけでもないからな…」
ここに来たのは、どうやら化け猫の話を聞きにきただけではないようだと、先ほどからの九尾の態度に大天狗も合点がいった。
九尾は唸った。顎に手をやり、しばし瞑目する。
「だからさっさと抱けば宜しいのに。あれはかなり魅力的でしょう?」
烏天狗は率直だ。大天狗が妻の前ではなかなか言いづらいことを、妻本人はさらりと口にする。
「そこがな…」
更にくちごもった九尾に、大天狗が問う。
「よそにやるのか?」
いや、と、否定とも相槌とも言えない返事のあと、しばし間を置いて九尾は口を開いた。
「あいつが他の男に取られたら、俺は泣く。だから悩むんだ」
「大天狗様」
会話が一段落するのを待っていたかのように、村を巡回していた烏天狗が庭先から声をかけてきた。
大天狗が顔を向けると、さっと頭を下げる。長に対する条件反射みたいなものだ。
「なんだ」
「化け猫の素性がわかりました」
お、と九尾も、小さな天狗を母親の胸に返し、首を回した。
「どうやら、もとは町にいた飼い猫のようです。飼い主は少し前に流行り病で亡くなっており、同居の猫にうつっているのではと近所や親戚から処分されそうになったようで」
ふむ、と続きを促す大天狗だが、九尾は巡回役の顔を見ていない。
「処分を免れ逃げた猫が、化け猫となり夜な夜な出没しているようです」
そうか、と大天狗は頷いた。
「なぜ村にいたんだ」
「その飼い主は元々は村の出身だったそうです」
「わかったような、わからないような感じだが、とにかく実害は無くとも止めさせなくてはならないな」
頷きかけた巡回役が、何か思い出したように、あ、と声をあげた。
「なんだ。まだ何かあるのか」
「実害は、神隠しのほうが。子供が数人、いなくなっています」
子供が、と大天狗の妻も険しい表情になる。
話によると、あちこちで不穏な影がうろうろしているらしく、影が子供を飲み込んだと思ったら消えてしまった、と半狂乱で父親が叫んでいたのを耳にしたらしい。
「盆が近いからな。迎え火が、影を呼ぶ」
九尾が呟いた。
盆に迎え火を焚くのは、人間の習慣だ。
あの世に行った親しい者を、わずかな時間、呼び寄せる。
火を目印に。
野菜の馬に乗って来い。
さすれば束の間の再会を。
そして、一緒に。
「悪いものでないなら、我らがどうするものではないが…。念のため、猫の件と併せて、町と村を見張れ」
長の命令に、御意、と頭を下げた巡回役の懐から、何かが見えた。
「凛」
九尾の声に反応するようにその獣の耳が僅かに動いたと思ったら、次の瞬間には懐を抜け出し、九尾目掛けて飛びついた。毛並みの綺麗な、大人の狐である。
「凛、お前なんでここに」
呆れたような九尾の声に、巡回役も安心したかのように言葉を継いだ。
「ああ、やはり九尾様のところの狐でしたか。村に向かう途中、子供らが石投げをして遊んでいたんですが、どうやらそれに当たったようで」
石、と聞いて九尾が急いで狐の体を検分するが、大きな怪我はないらしい。巡回役はその様子を見ながら話を続ける。
「木の陰で気絶していたのを、たまたま見つけたんです。微弱ながら纏っていた妖力のおかげで子供は近づかなかったのかと」
「あらまあ、大人に捕まらなくて良かったわねえ」
ですねえ、と言い、感謝の意を表す九尾に一礼をして巡回役は去っていった。
狐はというと、決まりが悪そうな顔で九尾の胸に抱かれている。
「凛」
九尾はまた、やや厳しい口調で狐に話しかけた。
「お前が狐の姿が好きなのはわかるが、むやみに村や人間に近いところへ行くなとあれほど言ってるじゃないか。人間は化け猫騒動で警戒してるからな、狐だっていつとばっちりを受けて捕まえられるかわからないんだぞ。第一お前はそれでここまで逃げて…」
聞いてるのか、と九尾は捲し立てたが、狐は無言で目を逸らしている。普段は泰然としている長が、一介の狐にむきになって怒っている様子はやや滑稽だ。
「…なあ、それ本当に凛なのか?俺には狐の見分けはつかん」
大天狗は微妙な顔だが、九尾はなにを、と言う顔で振り返る。
「凛の毛並みの良さがわからんのか」
そう九尾が言ったとき、一迅の風とともに着物姿の凛が姿を現した。人間に化けたのだ。
「おお、確かに凛だ」
大天狗は感嘆している。昔、九尾に、着物はどう作るんだと聞いたことがあったが、その辺の諸々を集めて適当に、と、適当な返事が返ってきたのだった。
とにかく着衣まで自在にできる変化というものは、きちんとした形になれば便利そうだった。
「さすがだな」
「当たり前だろう。俺の直伝だぞ」
「お前の里のものより化け上手なんじゃないか」
「凛は元々綺麗だからな。俺の目に狂いはない」
「…九尾こそ惚気に聞こえるぞ」
長2人の会話に、あらまあ、と烏天狗は笑うが、凛は「娘可愛さですよ」と流している。
「しかし」
天狗の声音が変わった。
「普通の獣が、そんな簡単に変化を身に付けられるわけではなかろう」
九尾も、言わんとするところがわかり話を引き取る。
「そうだ。だから化け猫は猫のままだ」
年を経て本来の姿より変わった猫又とは違い、にわかに多少の妖力を得た獣のできることには限度がある。
「手拭いを被り踊る姿は、すでに普通の猫ではない。しかし、人に変化するまでの力もない。おそらく、怨念ではなく情念で一時的に人間のような仕草を型どっているだけだろう。猫自身の気持ちが落ち着けば、自然と事態も収束する」
「落ち着く、とは?」
凛が、九尾に尋ねた。
人間の姿の凛は、九尾の胸から抜け出し、すらりと佇んでいる。
「死んだ飼い主への未練が絶ちきられたら、化け猫は普通の猫に戻るさ。そうしたら、あとは寿命を待つだけだ」
寿命。
凛は静かに、その言葉を反芻する。
「あら」
ふと、烏天狗が声をあげた。
小さな天狗が、凛に手を伸ばしている。
「抱っこしてほしいのかしら」
いい?と聞かれ、凛もはい、と頷き体をそちらに向けると、赤子は自ら凛の胸に飛び込んできた。
「…かわいい」
そう抱き直すと、小さな手がなにかを探し始めた。
え?と凛が言うのと、母親の、あら、という声が同時に上がる。
「あらやだ。お腹空いてるのかも…」
ごく自然に、小さな手が凛の着物の襟元から滑り込む。母親のそれとは違ってささやかな膨らみだが、それでも目当ての物は探しあてたらしい。
赤子の指に、力が入る。
「…!」
凛が、顔を真っ赤にして声にならない声をあげた。
九尾も、これまた珍しく口を半開きにしている。まさか赤子相手に本気で怒るわけにいかないのだろう。
「ああ…」
九尾の口から、力なく声が漏れた。
「ああ…」
大天狗も、申し訳無さそうに呟いた。
もう、夕刻だ。夕陽が凛の髪を照らす。
「怒っていますか」
里に戻る途中、足を止めて凛は言った。後ろめたさは微塵も無く、声音はいつものようにきりっとしている。
九尾は、歩を止めた。
凛の手を引き再び足を踏み出すと、すでにそこは里の中だった。
「何をだ」
「勝手に村に行ったことを」
「怒ってはいない」
手を繋いだまま、九尾は凛を見つめる。
心配をかけたのは凛のほうなのに、その大きな目で見返され、九尾のほうが目を逸らした。
「では、赤子に体を触らせたことですか」
はあ、と溜め息をついた。
「俺が触っても無反応なのにな」
無言のまま、手を繋いだまま並んで歩く。背格好は、男女として釣り合いが取れている。しかし、付かず離れず歩く様は自然すぎて、それ以上の感情を想起できるものではなかった。
「すまない」
後ろめたいのは、自分のほうなのだ。
「なぜ、謝るんですか」
「お前が狐の姿でいることを咎める権利は俺にない。だが、危ない目には遭って欲しくない」
勝手に傍に置いて、勝手に心配している自分の言うことをいちいち聞く理由は、本来、凛にはない。
「勝手なことを仰る…」
「そうだ、勝手だな」
だから、と続ける。
「理由があれば、勝手を言っても良いか」
黙って聞いてる凛の目は、まっすぐ九尾を見ている。逸らしたくなるのを、ぐっと我慢して言った。
「俺の妻になれ」
穏やかな口調は変わらない。
なれ、とは言うが、命令ではない九尾の物言いは、凛は余るほど理解しているはずだ。
そして、幾度となく冗談めかして言われた言葉が、今回は本気というのもわかっただろう。しかし、彼女は落ち着いている。
「妻として、そばにいろと?」
「そうだ」
「それが、九尾様が私に望んでいることですか」
一瞬、九尾が言葉に詰まった。
「それが」
努めて穏やかに、話し続ける。
「そうなるのが、お互いにとって望ましいことだと思っている」
しばし、2人とも声を発しず見つめあった。
しかし凛のそれは情愛ではなく、挑むような目だ。
「できません」
迷いのない返事。
そうか、と寂しげに九尾は言った。
「好きな男でもできたか」
いえ、と、間を置かずに凛は首を振る。
「俺のことは」
「好きです」
九尾は手を伸ばし、凛を抱いた。
そのまま、唇を首筋にあて、手を体に這わす。しかし、閨に来る者のような反応は、凛にはなく、ただ、身を任せているだけだ。
「近くに、置きすぎたな」
いえ、と凛は言った。
「近くにいられて、幸せでした」
娘として。
赤子に触られた時ですら過剰な反応をした生娘の凛が、九尾には異性として何も感情を揺さぶられないのだ。
「後生のお願いです、父様」
娘ならば、いずれ独り立ちせねばならない。
「里を、出ます」
凛は、静かに、育ての親へ言葉をかけた。