その3
数日ののち、今までありがとうございました、と、拍子抜けするくらい短い挨拶とともに、凛は出ていった。
寝所に、これ幸いと狐の化生たちが押し寄せたが、九尾は人払いをして一人横になる。
九尾は、長として冷静に里を治めてきた。
だが、個の感情を押さえられるかは別だ。獣も人も、感情に突き動かされてしまうのを恐れて、理性で蓋をすることもある。
「全く、何百年も生きていてこれか」
九尾は自嘲した。
凛が好きだ。凛もそうだろう。しかし、今のままではいけないし、どうするのが最善なのか、もはやわからなかった。
理性を感情で覆すにも、九尾が重ねてきた年齢と経験が邪魔をしている。
「長生きなんて、するもんじゃないな」
凛が他の男のもとへ行ったら泣く、と自ら言ったが、娘が手元を離れた際に涙が出なかったのもまた、年を重ねてきたということなのだろうか。
逡巡し、答えは出ない。
九尾は、鮮やかな髪色と意思の強い目を思い浮かべた。
夕刻、木々から西日が差し始めた。
その中を歩く凛の髪が、振り向くたびにきらめく。
「さて」
里を出たものの、凛に行くあてはない。
身の回りのものだけ風呂敷に包み、肩に担いでひたすら歩いていたら、町にほど近いところまで来たが、いかんせんこの先どうするかを決めていなかった。
そもそも、生まれた場所に帰れないから、九尾が拾い、ずっとそこにいたのだから。
じきに、日は落ちるだろう。
「ひとまず今日の宿を探さないと」
その気になったら狐に戻り、木のうろで暮らそう。そう思った時に、目の前を何かが横切った。
ひらひら舞う、手拭い。
そして、そこから見える、2本の足。
立っても凛の膝の高さほどしかないそれには、全身にびっしり、獣の毛が生えている。
「猫…」
凛の呟きに反応してこちらを向いたのは、やはり猫だ。
にゃー、と一声鳴いたあと、凛を頭から足先まで眺める。
「なんだお前、狐か」
ひいい!と、凛は思わず悲鳴をあげた。猫が喋った!と言ったところ、化け狐が何を、と呆れた声が返ってきた。
「この近くの、九尾さんとこのやつか?この町にもよく来るよな。まあ初めて見る顔だけど、なかなか美人に化けてるじゃないか」
凛は、里を出たときから獣の耳は隠している。
滅多に町におりたことはないが、こうしないと駄目だと九尾にきつく言われて育ったからだ。
だが、同じ化け性のものにはわかるらしい。
「あなたこそ、近頃夜な夜な踊り歩いているという、化け猫でしょう?化けてはいないみたいだけど」
「できないんだよ」
猫は、憮然とした。
「なかなか難しいんだ…それに俺は、人間になりたいわけじゃないから」
そう言って、手拭いを前足で器用に扱うと、首にかけた。まるで農夫のようだ。
「それよりお前、宿がどうとか言っていたな。良かったらうちに来いよ。なかなか悪くないところを見つけたんだ」
暗闇に紛れるように猫についていくと、あばら家に着いた。
「最近まで物ごいが住んでたんだけどさ、いなくなったからおとといから俺が住んでる。まあ座れよ」
座れ、と言われても、座布団も何もない。躊躇していると、猫が驚いたように言った。
「なんだ、本当にお嬢さん育ちなのか。ひょっとして九尾の娘とか」
こちらも少し躊躇ってから頷くと、猫は、そうなのか、と潰れたような声を出した。
「なら仕方ないかあ…それにしても、どうして町に?親子喧嘩か?」
親子喧嘩といえばそう言えなくもない。
と、そこではたと思った。
「どうして、夫婦じゃなくて親子だと?」
凛の言葉に、ん?と猫は聞き返す。
「だってお前、生娘だろ」
生娘、という率直な言葉に、凛は顔を赤くする。
「俺たちはそういうの、なんとなくわかるんだよ。なんだ。本当の娘じゃないのか。九尾が手を付けないなんて珍しいな」
「手…」
凛は、見慣れた九尾の寝所を思い出す。
「まあ、なんか事情があるんだな。とにかく座れ。酒飲むか」
猫は、半ば朽ちた囲炉裏ばたに座る。四つ足のままだが、人間のように後ろ足を投げ出すように尻をつき、文字通り猫背で瓢箪を抱えた。
「秘蔵の酒さ」
にやり、と笑い、瓢箪に口を付けてちびちび舐め始める。喉をならし、満足げな顔をしたあと、猫は凛に瓢箪を渡したが、凛はこれまた躊躇している。
「人のまま飲むなら、ぐいっといったらいい」
前足で動作をしてみせる猫を真似て、凛は瓢箪を口元に持っていき、勢いよく傾けた。
喉に、酒が流れ込む。
飲み込んで、しばし。視界が揺らいだ。
「…あれ?」
猫が発する間抜けな声が、なぜだか遠くに聞こえた。酒を飲んだこともないのか?と問われた気がしたので、頷く。
そうだ。
弱いみたいだから飲むなよ、と、九尾に言われたことがある。飲むと解けるから、とも。
「変化が…」
呟いた瞬間、体が縮み、そのまま視界が真っ暗になった。
目が覚めたとき、目の前に見えたのは獣の足だった。
狐の前足は、自分のだ。
「…そうだった…」
酒のせいで変化が解けた挙げ句、そのまま寝てしまったらしい。凛が室内を見回して自分の荷物の所在を確認したところで、声が聞こえた。
「おう。起きたか」
日の光を背にしてあばら家に入ってきたのは、猫だ。四つ足でしなやかに歩いてくるそれが人の言葉を話している様子は、知らない者が見たら腰を抜かすだろう。
「朝は猫なのね」
こちらも狐の姿のまま人語を話す。
「夜も猫だけどな。月の光の下じゃないと、人みたいに立てないんだ」
ふうん、と言って、凛は体を揺する。
一瞬、狭いあばら家の中に砂塵が舞い、狐がいた場所に人間の女が現れた。明るめの茶色い髪に紺の着物姿は、ゆうべ猫と会った時と同じだ。
「見事だな」
猫が感嘆する。
「どうも」
「ちと目立つがな」
これ?と、凛は自分の髪をつまみ、首を回す。
緩やかに顔周りを撫でた髪は、先ほどまでの狐色からあっという間に漆黒に変わった。
ほう、と猫は目を見開いている。
「九尾は、それはそれは見事に化けるとのことだが、お前は娘じゃないんだろう?なのにそれほどの術を身に付けているのか」
「だって、私に変化を教えたのは九尾様だもの」
軽く肩をすくめる凛を、猫はじっと見る。
「…なによ」
「別に」
訝しげな凛の問いを軽く流し、猫はにやりと笑った。
「どうせ暇なんだろう。町を案内してやるよ」
凛が一人、いや、一匹の狐として出歩くのは、村が限度だ。距離もあるが、九尾に固く禁じられているのである。
幼い頃、若侍に化けた九尾が凛を懐に入れて町に連れてきてくれたが、好奇心から脇道に迷い混み、九尾とはぐれてやっとの思いで帰ったことがある。
その時も、えらい剣幕で叱られたのだ。いつもは飄々とした優男が髪を逆立てた様は周囲の者達を怯えさせたが、当の本人である凛は、滅多に見ない九尾の姿を、面白く眺めていた記憶がある。
ふふ、と思いだし笑いをした凛を、猫が不思議そうに見た。
「なんか面白いものでもあったか」
ううん、と笑いながら首を振る。猫と人語で話す様が周りに知れては具合が悪いので、付かず離れず、聞こえるか聞こえないかの声音で会話をしながら、凛と猫は町中を歩いた。
とにかく、町は賑やかだ。
へえ、とか、わあ、など言いながら歩く凛を、何人かが振り返っていく。
「…何か視線を感じるんだけど」
「そりゃそうだろ」
別段不思議ではなさそうな猫の返事にさらに首を傾げながら、凛はあちこち眺めながら歩く。
九尾が作った里にも、店は沢山ある。しかし、凛は九尾と一緒に里の町中を歩いたことはない。
目の前を行く、男女二人をぼうっと眺めていると、その男の方が凛を見た。目が合ったので軽く頭を下げて挨拶すると、男の顔が真っ赤になってしまった。
すぐに女が男を小突きどこかへ行ってしまったが、あまりの慌てぶりに、耳でも出ていたかと凛は髪に手をやる。
「何もおかしくねえよ。成る程、こりゃあ九尾も手を焼くな」
にゃあ、と含み笑いをしながら猫が言った。
「何が」
「何でも」
にやにやしながら先を行く猫を追いかけ、凛は町中を早足で歩く。
「おい、気を付けろよ」
猫が言うのと同時に、誰かと肩がぶつかった。
「盆だからな」
いつもより町に出ている人が多いのかもしれない、と凛は振り向いたが、すでに相手は人混みに紛れたようだ。
向き直ると、猫は人の足元を器用に擦り付けて十歩ほど先を歩いている。
凛は慌てて追いかけたが、猫を見失わないようにすると、せっかく店を見ようとしても通りすぎてしまう。
幼い頃連れてこられた時より景色が流れると感じ、ふと足を止めた。
「なんだ。疲れたか」
猫も足を止めたが、そうではない、と首を振る。
立ち止まり、辺りを見渡した。狐の姿で、九尾の懐から町中を見た思い出が甦った。




