その1
「九尾様、 後生です」
きりりとした、木の葉のような目をまっすぐ九尾に向けてそう言ったのは、化け狐の一人、凛だ。
「後生が何回あるんだ?」
微笑を浮かべながら九尾は返したが、凛は厳しい表情を崩さない。
「何回でしょうね」
溜め息で、明るい茶色の髪が揺れた。腰まで緩やかに伸びた髪を軽くなでつけ、凛は九尾とその周囲を見回す。
「まだ後生の願いを一度で聞いていただいたことはありませんから」
さあ、と凛が九尾の腕を引くと、そこにいる5人の人影から一斉に非難の声があがった。
「う・る・さ・い・です!」
凛が一喝する。
ここは九尾の寝所だ。そして、声は寝所にはべる女たち、すなわち狐が化けた女性たちである。
「だいたい!一度に5人も!多すぎです。節操のない…」
溜め息を吐く凛の前で、九尾もばつが悪そうな顔をしている。
九尾は一族の長で、化生の姿はかなりの男前だ。妻を持たない艶事の好きな神獣の化身に、同じく妖艶な美女が閨を共にしたいと押し掛ける。
それを、来るものを拒まず受け入れていると、両手に花どころか、まとめて複数…という無節操な図になることもあるのだ。
「怒るなよ…」
九尾は、凛が苦手だ。いや、凛に怒られることが、決まりが悪いのだ。
その優男らしいやんわりとした笑顔で、なんとかやり過ごそうとしたが、そうはいかない。
「怒りますよ。大天狗様がお待ちです。早く服を着て下さい」
九尾の裸を見慣れている凛は、散らかった着物を拾い、軽く整えて手渡す。
「そんな怒ってばかりだと、嫁の貰い手がなくなるぞ」
人払いをして身支度を整えながら、九尾は感情のこもらない口調で言う。
「大きなお世話です」
こちらも淡々とした口振りだ。
「もらってやろうか」
「娘に何を仰いますやら」
「もとは他里の狐だろう」
2人きりになると繰り広げられる、お決まりの会話だ。そしていつも、最後は凛の言葉で締め括られる。
「私は拾われた身なんですから。心配はご無用です」
待たされるのは、いつものことだ。
大天狗もそれを見越して九尾のもとに来ているのだが、今日は珍しく、然程時間が経たないうちに狐の長は姿をあらわした。
「どうしたんだ?今日は早いな」
驚いて大天狗は九尾と、次いで凛を見た。
「最中じゃなかっただけです」
顔色も変えずに言う凛に対し、九尾はいや、その、と狼狽し、大天狗も黙ってしまった。
九尾は何百年、大天狗もそれなりの年齢のはずだが、この18、9にしかならない女狐の凛に、長ふたりは何も言えない。
大天狗は思考を2度3度巡らし、九尾に小声で問いかける。
「九尾よ、いつも最中の様子をこの子に見せてるのか?」
「そんなわけないだろう」
「そうですよ。たまに声が聞こえるだけです」
え?と男二人は凛に向き直ったが、凛はさらりと話を変えた。
「それより。大天狗さまの山にも出たんですか?」
凛の問いに、大天狗は袂から何かを取り出した。骨ばった手に、手拭いが握られている。よく見ると、獣の細い毛が付いていた。
「化け猫の匂いがするな」
九尾が軽く鼻を鳴らすと、大天狗も手拭いを鼻先に近づけた。
「よくわかるな。で、やっぱりそうなのか」
「ああ。お前のところの誰かが遭遇したのか?天狗相手に化け猫が踊りを披露してどうするんだ」
九尾はすでに興味が無さそうだが、凛は真剣な顔つきだ。
「山に出たんですか?」
「いや、この手拭いは、村人が持ってきたのだ」
「村の猫が、化けるように?」
「それなんだよ」
大天狗も、眉間に皺を寄せている。
「そもそも、村でも見たことがない猫だそうだ。夜な夜な村の中を踊り狂う様がとにかく気味が悪いからなんとかしてくれと」
ははあ…と、九尾も顎に手をやる。
「こちらは、町に行った者から話を聞いたんですが、やはり手拭い片手に踊る猫が出た、と」
凛も懐から包みを取り出す。包んであるのは手拭いだが、それを取り出した胸元を上から覗きこみ、九尾が言った。
「相変わらず胸が無いな」
「放っておいて下さい」
「そこが平らだと着物には色々しまえるが、もっとあったほうが何かと便利だぞ」
「不便はありませんから」
「大きくしてやろうか」
「間に合ってます」
つれないな、と肩をすくめる優男を見て、大天狗は溜め息をついた。
「とにかく、うちの烏に村と町を巡回させる。何かあってからでは遅いからな」
真夜中、山あいにいくつか、灯りが見える。
凛は、離れの自室からそれを見ていた。
3年前までは、凛も九尾の隣で一緒に鬼火とも狐火とも呼ばれるそれを眺めていたことを思い出す。
夏だからな。
そう言った九尾は少し悲しげだった。
凛は、狐に姿を変えた。
九尾や自分が住む屋敷の広い庭を、気ままに走る。
すでに事を終えて相手を帰した九尾が、寝所の窓からその様子を見ていた。
月明かりが照らす狐の毛並みは、美しい。
視線を感じた凛が、人の姿になった。
「狐のままで、いいのに」
優しく、九尾が笑う。
「いえ…」
いたずらが見つかった子供のような表情を浮かべ、凛が寝所がある方を見上げる。
その足元を、影がかすめた。
「…凛」
九尾が眉を潜めてもう一度、今度はやや強く庭に向かって声を掛けると、凛は小首を傾げ、今しがた風が乱した着物の裾を整えてから、屋敷の中に入ってきた。
凛が九尾の寝所に着いたとき、今宵相手をしていたらしき者はまだ部屋の外にいた。
九尾に早々と退室を促され、未練がましくとどまっていたらしい。
そして、凛に向かって化け狐特有の色気と迫力がある睨みを利かせ、勢いよく去っていった。
「あれも美人だけど、気が強いのがなあ」
半裸で立ったまま顎に手をやり、まるで悩んでいないふうに呟く九尾を見て、はあ、と凛は溜め息を吐いた。
「なぜ身の回りの世話に私を置くんですか…もっと隅から隅まで世話をしたがる者は沢山いるでしょうし、私が睨まれる筋合いはありません」
凛は心底嫌そうに話すが、九尾は意に介さない。
「お前が一番俺の近くにいるからな。他の女から嫉妬されるのは、諦めろ。拾ったほんの子供の頃から、ゆくゆく美人になると思っていたし、俺の目に狂いはなかった。ただ」
そう言って、九尾は凛の胸を着物の上から撫でる。
「これだけは予想外…」
凛は呆れて、九尾の手を払いのける。
「この里の方々は皆豊かなお体をお持ちですからね。他里の狐が平らだなんてご存知なかったんでしょう?」
皮肉はなく、はっきりした物言いに、九尾は笑う。
里の入り口は、里のもの以外には見えない。
しかし、まだ小さな狐だった凛は、瀕死の状態でそこに体を横たえていた。
その頃、いくつか向こうの町で「もののけ」が起こしたという騒ぎがあり、山の狐や狸が片っ端から人間に狩られた話は、九尾の耳にも入っていた。
理不尽だ。
そう思ったが、どうすることもできなかったし、そもそもどうする気も無い。しかし、この狐を見捨てる道理はなく、連れて帰った。
「凛は、昔からそうだな。俺に対して遠慮がない」
「遠慮はしていますよ。閨事の時には、寄らないようにしています」
はは、と笑って九尾が手を伸ばすと、しなやかな動作で、凛はその手が届くところまで進んだ。
九尾は、着物に指をかけて肩から滑らせる。されるがままに立っていた凛は、すぐに、一糸まとわぬ姿になった。
「相変わらず上手に化けているな。それこそ他里の者とは思えぬ」
「九尾様が教えて下さったのでしょう?」
ごく自然な動作で九尾は寝台に凛を引き寄せ、凛もそこに仰向けに体を横たえた。
大きな手が、白い肌をゆっくりと撫でる。
指が、ささやかに膨らんでいる胸をなぞったが、凛は黙ったままだ。
そのまま、腹を、腰を、腿から足先まで手を滑らせ、ふい、と九尾は体を起こす。
凛に着物を渡し、自身も無造作に前を合わせた。
「もう、18になるか」
「はい」
「よく、持ちこたえたよな」
「ええ」
淡々とした物言いだ。九尾も普段は、拾った他里の狐に、わざわざ変化を教えることなど無い。しかしそうしなければ、虫の息だった子狐は、普通の獣としてあっという間にこの世を去っただろう。
九尾は、弱っていてもなお艶やかだった狐の毛並みを思い出す。
幸い、命が尽きる前に少なからず妖力を得た凛は、獣の寿命を越えた年月を九尾と共にしてきた。
娘として。
「平らな胸がお好みじゃないなら、よそへ出して頂いて構わないんですよ」
からかうように凛が言うと、九尾がとぼけたように返す。
「俺が、お前を手放すわけがないだろう」
はいはい、と寝台を整えながら凛は返事をする。
「娘として大事に育てて頂いて、感謝しています」
「ああ、自慢の娘だ」
幼い頃は、本当に娘のように寝食をともにしてきた。15で、改めて世話係を言い付けてからも、関係は何一つ変わらない。
すらりとした愛娘の後ろ姿を、九尾はじっと見つめていた。




