⑤
バーのステージで歌う涼音を、客席の最前列で熱を帯びた瞳で見つめる傅 墨言。
その姿は周囲から見れば「彼女に首ったけな熱烈なファン」、あるいは「彼女を囲うパトロン」そのものだった。
だが、その圧倒的なオーラと威圧感のおかげで、他の下心を持った客たちは誰も近寄ることができない。墨言は文字通り「盾」となり、彼女を守り抜いていた。
しかし、そんな鉄壁のガードをすり抜ける最悪の男がやってきた。
その夜、客として店に足を運んでいたのは、なんと涼音の婚約予定者である韓 宇辰だった。
もちろん、派手なメイクとウィッグで別人になりきっている涼音に、宇辰が気づくはずもない。
ステージの上の儚げで妖艶な歌声に一発で心を奪われた宇辰は、ニヤニヤとした卑しい笑みを浮かべ、ステージ袖の控室へと押し入ってきた。
「お姉さん、最高だったよ! 俺の愛人にならないか? 金ならいくらでも払うぜ」
「……(最悪。よりによって、このクズ男が……!)」
涼音は内心で舌打ちし、冷めきった声できっぱりと拒絶した。
「お断りします。お引き取りを」
「冷たいこと言うなよ、もったいぶるなよ!俺の女になれば、いくらでも金はやるし、我が儘も聞いてやる」
しつこく腕を掴もうと迫る宇辰。その瞬間、控室のドアが音を立てて開き、冷徹な殺気を纏った墨言がすっと滑り込んできた。
「――離せ」
低い、地獄の底から響くような声。
墨言が宇辰の肩を掴み、力任せに引き剥がす。
圧倒的な体格差と凄まじい威圧感に気圧された宇辰は、青い顔で「なんだお前……っ!」と悪態をつきながら、逃げるように部屋から飛び出していった。
ガチャン、とドアが閉まると、涼音はドッと疲れたように息を吐き出し、ソファに崩れ落ちた。
「はあ……っ、本当に最悪! あんなクズ、どこをどう切り取っても救いようがないわね」
(私の結婚相手があんな最低男だなんて、思い出すだけで吐き気がする!)
眉を釣り上げ、毒を吐くように愚痴をこぼす涼音。
いつもは冷静で儚げな彼女が、怒りで頬を膨らませて必死に牙を剥いている姿を、墨言は腕を組んでじっと見つめていた。
(……可憐な兎だと思っていたが、ちゃんと噛みつきもするんだな)
怒ってすらいちいち絵になるその可愛らしさに、墨言の胸の奥で甘い熱が疼く。
「……お疲れ様でした。あんな男、二度と近づけませんよ」
少し柔らかくなった声で墨言が声をかけると、涼音は「ふんっ」とそっぽを向いたが、どこかホッとした表情を浮かべた。
◇
帰り道の車内。
張り詰めていた緊張が解け、静かに夜景を眺めていた涼音のポケットで、突如としてスマートフォンが激しく震え出した。
画面に表示された兄の名前を見て、涼音の血の気が一気に引いた。
『兄・沈 景淮』
「っ……!」
慌てて電話に出ると、受話器の向こうから低く冷たい兄景淮の声が響いた。
『涼音。夜の十時を過ぎているというのに、お前が部屋にいないのはどういうことだ?』
「……! ええと、その、ちょっと散歩というか……友達とちょっと」
『散歩ねえ。夜の街をウロウロして、まさか男とでも一緒か?』
電話越しの鋭く探るような兄の問い詰めに、涼音は冷や汗をダラダラと流しながら青ざめた。
ここで夜のバイトがバレたら、両親に言いつけられて一巻の終わりだ。
助手席でそのやり取りを聞いていた墨言は、低くかすれた声で「……男か」と呟いた。
(恋人からの電話か? あんなに焦っているということは……)
胸の内に、黒々とした嫉妬の炎が燃え盛る。
「違うわよ! 違うの、友達が失恋したから慰めてたの!すぐに帰るから! だから部屋で待っていて! お願い、怒らないで……っ!」
バレたら終わりだという恐怖から、涼音は普段のサバサバした性格を完全に忘れ、甘えるような切羽詰まった声で兄に必死に懇願した。
「っ……すぐ戻るから、切るね!」
通話を無理やり切ると、涼音は青ざめた顔で窓の外を見た。
指定された降車場所に車が停まるやいなや、ドアを開け、一目散に夜の街へと走り去っていっていった。
車内に残されたのは、重苦しい沈黙。
バックミラーの向こう、必死の形相で走り去る涼音の背中を見送りながら、傅 墨言の瞳に危険な光が宿った。
「……他の男に、あんな可愛い声で甘えるのか」
低く呟いた墨言の拳が、ガツンとハンドルの中心を激しく叩きつけた。
怒りと嫉妬に歪むその顔には、もはや最初の冷静なボディガードの面影など微塵もなかった。




