④
バーでの仕事を始めて数日が過ぎた頃。
帰りの車内、後部座席に腰を下ろした沈 涼音は、窓の外に流れる夜景を見つめながら口を開いた。
「ねえ、傅さん。少し相談に乗ってもらってもいい?」
「……なんでしょう」
バックミラー越しに視線を交わすと、涼音はあごに手を当てて真剣な表情を浮かべた。
「お店の雰囲気に合わせて曲を選んではいるんだけど……お客様にもっと響くのって、どういう曲だと思う? あなたも客として客席にいるでしょ? 客観的な意見を聞きたくて」
ざっくばらんに意見を求める涼音に、傅 墨言はハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。
「……そうですね。ジャズ調のしっとりとしたバラードも悪くありませんが、あなたの声には、少し哀愁を帯びたアコースティックな曲の方がよく映えます」
墨言は素知らぬ顔で答えつつ、さりげなく自分の好みの曲調と、昔から好きな一曲のフレーズを口にした。
「へえ、そういう曲が好きなの?」
涼音は小さく頷くと、ふと思い立ったように瞳を輝かせ、静かにメロディを口ずさみ始めた。
車内の静寂に溶けていく、可憐で澄んだ歌声。それは、たった一人の聴衆である墨言のためだけに紡がれた、夜の秘め事のような歌声だった。
墨言の胸の奥が、激しく跳ね上がる。
(……くそ)
まるで自分が、このかなり年下の少女に甘く口説かれているかのような錯覚。
自分はただのボディガードであり、彼女は依頼人に過ぎない。それなのに、墨言は自分が彼女に狂おしいほど惹かれ始めていることを突きつけられていた。
車が指定の降車場所に近づいた時、墨言は今までの自分ならあり得ない言葉を口にしていた。
「……沈さん。今日はこのまま、あなたのご自宅までお送りします」
「えっ?」
涼音は歌をやめ、驚いたように目を見開いた。
「ここでお降りになるのは危険です。我が社のボディガードには厳重な守秘義務があります。ご自宅の場所を知ったところで、外部に漏らすような真似は決してしません」
普段の冷徹な彼からは想像もつかない、個人的な立ち入り。
だが、涼音は甘い言葉には乗らなかった。
身を乗り出し、サバサバとした強い目線で墨言を見据える。
「断るわ。契約は『この指定場所までの送迎』でしょう? ボディガードなら、契約通りに仕事をして頂戴」
きっぱりとした拒絶。涼音は素早く車を降りると、一度も振り返ることなく夜の闇の中へ消えていった。
残された車内で、墨言はハンドルに額を押し当て、低く溜め息を吐いた。
(何をやっているんだ、俺は……)
プロとして、そして傅家の元後継者として、これほど不覚なミスを犯したことはない。
焦りから警戒され、彼女を逃がしてしまった。
だが――バックミラーに映る自分の瞳に宿っていたのは、後悔だけではなかった。
(立ち入らせないなら、好きにすればいい)
口元に、冷酷で危険な笑みが浮かぶ。
一筋縄ではいかない生意気で儚い令嬢。ならば、正面から追うのではなく、周囲からじわじわと追い詰めていけばいいだけだ。
墨言はスマートフォンを取り出すと、迷いなく部下にダイヤルした。
『はい、社長』
「沈 涼音の周囲を徹底的に調べろ。家柄、家族関係、交友関係、婚約者……彼女に関するすべてだ。秘密裏に進めろ」
『承知いたしました』
通話を切ると、墨言は涼音が消えていった暗がりを静かに見つめた。
無知な彼女は、自分がすでに自分の縄張りの中に足を踏み入れていることすら気づいていない。
「……必ず捕まえる」
静かな車内に響いたその声は、甘く、そしてどこまでも危険な響きを帯びていた。




