③
初出勤の夜7時。指定された路地の陰に、高級黒塗りセダンが静かに停車していた。
運転席から降り立った傅 墨言は、約束の場所を見つめる。
やがて現れた人物を目にして、墨言は思わず眉をひそめた。
そこにいたのは、大きすぎるダボダボのグレーのスウェットをすっぽり羽織り、フードを深くかぶった怪しげな依頼主だった。派手なメイクと派手な色の艶やかなウィッグのすき間から、ちらりと覗く華奢な顎ライン。
「……あなたが、ボディガードの方?」
スウェットの裾をぎゅっと掴みながら、涼音が警戒気味に声をかけてくる。
「ええ。本日から警護を担当する傅です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。私のことは涼と呼んで」
墨言が短く名乗り、後部座席のドアを開けると、涼音はほっと胸を撫で下ろすように車内へ滑り込んだ。
(ずいぶん背が高くて、威圧感のある男の人……でも、仕事は完璧にこなしてくれそうね)
車が走り出すと、車内には静寂が満ちた。墨言はバックミラー越しに彼女の様子を伺う。
令嬢の面影は派手なメイクで隠されているが、スウェットから覗く首筋や手首の細さからその可憐さは隠しきれていない。何を想ってこんな奇妙な変装までして夜の街へ繰り出すのか――墨言の興味は深まるばかりだった。
◇
バー『LUNA』に到着すると、涼音はバックヤードの控え室でスウェットを脱ぐ。スウェットの下にはステージ用の衣装を身に付けていた。そして、スポットライトが照らすステージへと上がった。
客席の隅、客を装うために影になるテーブル席に腰を下ろした墨言は、ノンアルコールのカクテルが入ったグラスを手に彼女を見つめる。
次の瞬間、店内に響き渡ったのは――魂を揺さぶるような、圧倒的で儚く美しい歌声だった。
佇まいからは想像もつかないほど、情熱的で、澄み切っていて、どこか切ない響き。ピアノで鍛え上げられた確かなリズム感と相まって、店内中の客が一瞬で息を呑み、彼女の歌声に惹きつけられていく。
(……これは、当たりだな)
墨言はグラスを傾けながら、瞳を細めた。
ただの気まぐれなお嬢様の道楽かと思いきや、本物の才能だ。
こんな歌声を隠して生きてきたのだとしたら、あまりにも惜しい。
数曲を歌い上げ、ステージを下りて控室へ戻ろうとする涼音の前に、酒に酔った質の悪い客が立ちはだかった。
「お姉さん、いい歌声だねぇ! 一緒に一杯飲もうよ。いくら払えば隣に座ってくれる?」
「すみません、お酒は飲まない契約になっていますので」
しつこく腕を掴もうとする男。その瞬間、涼音と男の間にすっと長身の影が割り込んだ。
「――お引き取りを」
冷ややかな氷のような声。墨言が男の腕を軽くひねり上げ、見下ろすように視線を投げかける。
その身から溢れ出る圧倒的な威圧感と覇気に、男は顔を青くして逃げ出していった。
◇
仕事を終え、再び車へ乗り込んだ涼音は、深くシートに背を預けた。
「助かりました、傅さん。……それにしても、すごい威圧感でしたね」
「仕事ですから。それより……素晴らしい歌声でしたよ。涼さん」
墨言が素知らぬ顔で車を走らせながら静かに褒めると、涼音の瞳がぱっと輝いた。
「本当!? ありがとう! あー、やっぱりステージで歌うのって最高に気持ちいいわ! 今日は本当に楽しかった!」
膝の上で拳を握りしめ、晴れ晴れとした笑顔でサバサバと語る涼音。
先ほどまでステージで儚げでミステリアスなオーラを放っていた人物と同一人物とは思えないほどの、ざっくばらんなギャップ。
バックミラー越しにその笑顔を見た墨言の胸が、どくりと大きく跳ね上がった。
(この外見に、この飾り気のない性格……面白いな)
「また次回も、よろしくお願いしますね! 傅さん!」
「ええ。おやすみなさい。涼さん」
「おやすみ!帰りの運転も気を付けてね」
指定の降車場所で車を降りた涼音は、手を振って軽やかに夜の闇の中へと消えていった。
残された墨言は、彼女が去った方向を見つめたまま、口元を緩めていた。




