第9話 母親の願い —彩花side—
面会時間が終わり、さっきまでここにいた夫の和也と、まだ幼い娘たちの温もりが、病室のあちこちにかすかに残っている。
嵐のような去り際のあとに訪れたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
和也が「また明日来るからね」と彩花の手を握りしめた時の、少し汗ばんだ手のひらの熱。
娘たちが「お母さん、これ私たちで作ったんだよ」とベッドの傍らに置いていった、不揃いなひまわりの折り紙。
それらの愛おしい記憶が、夜の闇に吸い込まれていく中で、ゆっくりと遠ざかっていくのを彩花は感じていた。
彩花は、微かな常夜灯が照らす天井を見つめた。視界がぼやけ、熱いものが込み上がる。瞳に滲み始めた涙は、抑え込めてめていた感情をすべて押し流していく。
――まだ死ねないのよ……
――どうして私なの……?
Ⅰ型糖尿病と戦い、患者を助け、 そしてようやく掴んだ幸せ。
かわいい娘たちを残して、死ねるわけないでしょ……!
私には守るものがあるの。いつまでも、お姉ちゃんの後ろに隠れて守られている私じゃないのよ!
どうして……!
神様は分かってくれないの……!
こんなの間違ってる……!
死ねるもんですか……!
声にならない、剥き出しの魂の叫び。
制御の効かない怒号となって、彩花の胸を激しく焦がす。
痩せた指先が、シーツに深い皺を刻むほど強く握りしめる。
枕を濡らすその涙は、病の痛みに耐えかねたものではなかった。ただ、母親としての深い、あまりにも深い願いそのものだった。
子どもたちがこれから経験するであろう、初めての挫折、恋の喜び、人生の選択の岐路。その大切な瞬間に、自分がそばにいてあげられないかもしれないという現実に、彩花の心は引き裂かれそうだった。
看護師として、死を「自然な営み」として受け入れてきたはずなのに。自分が母親である以上、この死だけは到底受け入れることができなかった。
目を閉じると、脳裏を掠めるのはいつも娘たちの無邪気な笑顔。まだ自分がいなければ髪も上手に結べない穂香。夜中に目を覚ますと、寂しそうに彩花の布団へ潜り込んでくる優美。あの小さな手を、私はいつまで握っていられるのだろうか。
彩花の乾いた唇から、静かな祈りが零れ落ちる。
「神様……本当にいるなら聞いて欲しい……生きていられるのなら……私の身体はボロボロになってもいい……」
「どうか……どうか……お願いです……あの子たちが成人するまで……私の命を……もちこたえさせてください……」
震える声は、無情にも夜の闇にかき消されていく。死よりもまさる痛みは、夜が深まるほど鋭く、彩花の胸に突き刺さっていく。彼女はただ、祈ることでしか、引き剥がされそうな家族との絆を繋ぎ止めることができなかった。
――いつしか彩花は、深い、深い眠りの中に落ちていた。
それは肉体の苦痛から解放された、奇跡のように穏やかな時間だった。
気がつくと、彩花は光に満ちた場所に立っていた。どこか懐かしい場所だった。
「お母さん、見て!」
振り返った先――
そこには、驚くほど大人びた表情をした穂香と優美の姿があった。二人の顔には、彩花がずっと愛してきた、あの輝くような笑顔が浮かんでいる。
何より彩花の目を引いたのは、目が覚めるほど鮮やかな振袖だった。かつて叔母が、「いつか二人が大きくなったら着せてね」と贈ってくれた、あの着物。格式高い古典柄の振袖は、穂香と優美の晴れやかな美しさを、これ以上ないほど引き立てていた。
「すごく……綺麗……」
彩花が病床で、何百回、何千回と頭の中で描き続けてきた娘たちの姿。
「穂香、優美……本当によく似合っているわ」
彩花はそっと二人の頬に手を当てた。あたたかい——生きている。二人は嬉しそうに微笑み、カメラに向かってポーズを取っている。その姿を見つめながら、彩花の胸には温かな涙が広がっていった。
「あぁ……きっと、これから素敵な人と出会って、幸せな家庭を築くのでしょうね」
「お母さんね、いつか、あなた達が命を繋いで、あなた達の愛する子に会えるのを……本当に楽しみにしている……」
その言葉には、未来を見届けることができない悲しみを超えた、母としての純粋な期待と祝福が込められていた。
彩花が目を凝らす。
すると、振袖を着た娘たちの向こうに、さらに別の景色が広がっていく。
そこには、優しそうに娘たちの肩を抱く伴侶たちの姿。その足元では、小さな子どもたちが無邪気な声をあげて駆け回っている。和也もまた、少し白髪の混じった穏やかな笑顔で、その光景を眩しそうに見つめていた。
それは、彩花が心から願い続けた家族の未来そのものだった。
自分がそこにいられなくても、私の愛は、私の生きた証は、娘たちの中で生き続け、次の世代へと繋がっていく。
――あぁ……私の愛した家族……
彩花は、温かな涙を流しながら、この上ない幸福感に包まれていた。もうそこには、孤独も、病の恐怖も、自責の念もなかった。ただ、満ち足りた愛だけが世界を満たしていた。
そして、幸せいっぱいの夢から、目覚めることはなかった――
夜明けが近づく。
病室の窓の外から、紫から琥珀色へと移り変わる柔らかな朝の光が差し込み始めた。その光は静かに、優しく、彩花を包み込んでいく。
苦悩の日々を忘れたような安らぎが、その表情には宿っていた。まるで全ての役割を終え、愛する人たちの未来を見届けて安心したかのように。
そして――
呼吸は静かに緩やかになり、風が木々を撫でるように、旅立ちの瞬間が訪れた。それは驚くほど静かで慈愛に満ちていた。
Ⅰ型糖尿病というハンディを背負いながら、誰よりも強く看護の道を志し、患者に寄り添い、母として愛を注ぎ尽くした人生。
その最期は、彼女がかつて語った「人間の身体の不思議とたくましさ」を体現するかのように。尊厳に満ちた、美しい幕引きだった。




