第10話 記憶の奔流
夜明けが近づいていた。
カーテンの隙間から差し込む、街の灯りと混ざり合った薄暗い群青色の光。マンションの一室は、まだ深い眠りの中にあるかのように、しんと静まり返っていた。
ベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上。
わずかな摩擦音を立てて電話のバイブレーションが鳴り響いた。
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ……
重苦しい振動音が、鼓膜を刺激する。
「……ん……?」
浅い眠りから引きずり出されるように、陽子は目を開けた。まだ意識は朦朧としている。しかし、なぜだろう。心臓の奥が警鐘を鳴らすように、ドクドクと激しく脈打ち始めた。
嫌な予感しかしない。
こんな夜明け前の時間に電話をかけてくる人間なんて、一人しか心当たりがなかった。
恐る恐る手を伸ばし、液晶画面を覗き込む。バックライトの白い光が、暗い部屋の中で痛いほど瞳に刺さる。そこに表示されていたのは、見慣れた名前——彩花の夫、和也だった。
――何かが起きた……!
心臓が冷たい手で掴まれたように縮み上がる。何かが胸の奥でざわめき始める。間違いであってほしい。ただの、何でもない連絡であってほしい。指先が微かに震える。決定的な現実を拒絶しながらも、陽子は通話ボタンを押した。
「……もしもし、和也さん……?」
陽子の声は、自分でも驚くほど強張っていた。
「――義姉さん」
電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく掠れた声だった。
……
その沈黙が、逆に不吉な結末を物語っているようだった。
「……彩花が……息を引き取りました……」
静かに、明確に、その言葉が電話越しに響いた。
その瞬間――
脳が、その言葉を拒絶した。
陽子の世界から、すべての音が消える。時間も、空間も、思考も、呼吸している感覚すら消失した。
「え……?」
言葉が返せない。何かを言わなければならないのに、喉から息が漏れるだけだった。ただ、生温かい電話を、爪が白くなるほど握りしめていた。
「まさか……今日……」
呟くように漏れた声は、彩花の死を否定しようとする最後の抵抗だった。
「嘘……でしょ……? 和也さん……彩花が、なんて……?」
すがるような問いかけに返ってきたのは、静かに押し殺された和也の泣き声だった。それが、彩花の死という決して覆らない現実として、陽子の胸に容赦なく突き刺さった。
――気がついた時には、通話は切れていた。
どうやって電話を切ったのか覚えていない。
陽子は、ぽつんとベッドの横に立ち尽くしていた。目の前に広がるのは、さっきと何も変わらない部屋。けれど、その静けさは先ほどまでの日常とはまったく違っていた。
――彩花が……いない……?
嘘だ。
信じられるわけがない。
ついさっきまで、この世界に確かに存在していた、私のたった一人の妹。
陽子の脳裏に、彩花との最後の会話が鮮明に蘇る。三週間前のことだった。
「治療はまだ芳しくないけど、大丈夫だよ。だから心配しなくてもいいから」
受話器の向こうの彩花は、少し息が上がっているようにも思えたが、いつもと変わらない声だった。あの時、彩花は気丈に振る舞って、私を安心させようとしていた。陽子は、その言葉を信じた。
いや――信じ込むことで逃げたのだ。
「大丈夫」という言葉を都合のいい免罪符にして。
「仕事が忙しいから」
そんなもっともらしい言い訳を並べ立てて。
本当は怖かっただけだ。病魔に侵され、日に日に衰えていく彩花の「現実」を見るのが嫌で、耐えられなくて、無意識に彩花から遠ざかっていた。
会いに行けば、彼女の死を認めなければならなくなる。「仕事が落ち着いたら会いに行こう」「来週には時間ができるはずだから」と思いながらも、私は自分の弱さを「忙しさ」という嘘で覆い隠していたんだ……
その結果が、これだ。
――私は……あの時、彩花が命を削って作っていた『強がりの笑顔』に、あぐらをかいていたんだ……
最期になるかもしれないと分かっていながら、私は妹に会いに行くことを避けていた……
最低だ……
なんて醜くて、薄汚い女なんだろう……
心の隙間を埋めていた、もう二度とは手に入らない一番大切な何かが消えてしまった。猛烈な後悔と自己嫌悪が、鋭い刃となって心臓を抉り始め、喪ったあるじを探してうごめいている。
目を閉じれば、記憶の奔流が怒涛のように押し寄せてくる。
「いや……っ」
まだ、彩花がほんの子供だった頃。Ⅰ型糖尿病という病気を発症し、ふるえる手でインスリン注射を握っていた彩花。いつも私の後ろをパタパタとついてきて「お姉ちゃん遊んで」とスカートの裾を掴んだあの細い指先。
『お姉ちゃん! お姉ちゃん、見て!』
『お姉ちゃん、遊んで!』
私を姉として信じ切った目で、無邪気に甘えてきたあの笑顔。いつだって、私が姉として、あの子を守り、寄り添って、二人で歩んできたはずだった。
それなのに――彩花は大人になり、一人の男性と出会い、穂香と優美という可愛い娘たちの母親になった。そして、『がん』というあまりにも残酷な絶望と直面してもなお、彼女は誰よりも前向きに、誰よりも強く生きた。
――違う……守っていたんじゃない。
私は彩花の『強さ』に、ずっと守られていただけだったんだ……
最期の瞬間まで、彩花は私のことを気遣っていた。自分が一番怖くて、一番泣き叫びたかったはずなのに、私を困らせないために、ずっと『大丈夫』って言い続けた。それなのに、私は姉だと言いながら、あの子の孤独な闘いの場所に、一度も足を踏み入れようとしなかった。
――私は逃げた……
あの声も、あの笑顔も、もう記憶の中でしか存在しない。
「ああ……っ、ああああ……!!」
感情の奔流が、暴れ狂う。
喉の奥から、言葉にならない悲鳴がせり上がる。抑えきれない涙が、次から次へと溢れ出し、視界を、世界を、すべて涙の海で塗り潰していく。立っていることさえできない。
――くっ……
陽子はその場に崩れ落ちた。声を押し殺すことすらできなかった。冷たいマンションの一室で、なりふり構わず、ただ本能のままに泣き叫んだ。
「ごめんね……っ、ごめんね、彩花……っ!!」
陽子は激しい嗚咽とともに身体を痙攣させた。震える両手で顔を覆っても、指の隙間から涙がとめどなく溢れ、床へと滴り落ち、フローリングの床に黒いシミを作っていく。
「もっと……もっと早く会いに行けばよかった……!」
「仕事なんて、どうでもよかったのよ……!」
「どうして……どうして、もっと早く会いに行かなかったの……っ!!」
血を吐くような懺悔。
どれだけ叫んでも、どれだけ涙を流しても、この声が彩花に届くことは、もう二度とない。
自分自身への猛烈な嫌悪、怒り、行き場を失った感情が渦を巻く。それは鋭い棘となり、彼女の心を何度も何度も突き刺す。
「会いたかった……」
「もう一度だけでいいから……彩花に、会いたかったぁーー!!」
声にならない叫びが、幾度となくリフレインする。
叫べば叫ぶほど苦しくなる。でも、そうでもしなければ、罪悪感で精神が砕けてしまいそうだった。
彩花は、最期の瞬間まで、あんなに強く生きたのに。お姉ちゃんのうしろに隠れていたはずのあの子が、あんなに立派に、母親として、一人の人間として命を燃やし尽くしたのに。
陽子はさらに深く泣き崩れた。床についた手のひらが、自分の涙で濡れて滑る。
夜が明けた。
昨日と何も変わらない朝の光が、もう二度と戻らない世界を静かに照らし始めた。
やがて、小さな雪が降りだした――




