第11話 『許し』と『赦し』
陽子は静かな病室のベッドに横たわっていた。
その姿はすでに弱々しく、身体の輪郭すらぼやけているように見えた。生気が失われつつある彼女の顔には、それでも微かに涙が浮かんでいた。
「あっ……涙……」
「市川先生……人は死期が近づいてもなお、苦しみや痛みを感じるのでしょうか……それとも若杉さんは何かを訴えかけているのでしょうか……」
看護師が医師にそう話しているのが、遠くのほうで耳に届いた。だが、その言葉を陽子自身がはっきり聞き取ることはできなかった。音の一切が遠くなり、視界もぼんやりと滲んでいる。それでも誰かが自分について話していることだけは、本能的に感じ取った。
どうしても拭い去れない、三十三年前の後悔。
「忙しさ」を言い訳にして、彩花の最期の瞬間に立ち会えなかったこと。
――もしあの時、ほんの少しでも歩み寄ることができていたなら。
そんな思いが、いまも心の奥でそっと問いかけ、陽子の心を揺らし続けていた。彩花が亡くなった時、心の隙間を埋めていた一番大切な何かが消え去ってしまった感覚は、八十歳という齢を重ね、人生の終着駅に立った今もなお、鮮明に残っている。
――その時だった。病室のドアが勢いよく開いた。
「義姉さん!」
「陽子おばちゃん! 優美だよ!」
激しい足音とともに、優美が陽子の冷たくしなびれた右手をぎゅっと握りしめた。皮膚から流れ込んでくる若い体温は、まるで陽子の命をこの世界に繋ぎとめようとするかのように、あたたかい。
そして遅れて、息を切らせた穂香が入ってきた。
「市川先生。叔母の状態はどうですか?」
主治医である市川は、苦渋の表情を浮かべて彼女に振り返った。
「瀬川先生。若杉さんは……先ほど下顎呼吸が始まりました」
同業者としての残酷な現実を突きつけられながらも、穂香は陽子の左手を両手で包み込んだ。
「陽子おばちゃん、私よ……穂香よ」
――陽子おばちゃん……今度は、私が最期まで看取るね……
その時、ベッドの足元で優美が焦ったような声を上げた。
「お父さん! 早くお姉ちゃんに渡してよ!」
「穂香……実は、この手紙を読んで欲しいんだ。これは、彩花が亡くなったら義姉さんに渡してくれって、あいつに頼まれていた手紙なんや」
和也は申し訳なさそうに、小さく震える手で、一通の古い封筒を穂香に差し出した。
「えっ……!? どういうこと? そんな大切な手紙、どうして今まで渡さなかったの!」
「すまん……あの時の義姉さんの狂いそうな姿みとったら、ワシ、怖くて、どうしても義姉さんに渡せんかったんや……穂香、お前はもう医者やろ。だから、今なら大丈夫やと思ったんや……」
「なにやってんのお父さん! それに何!? その、どうしようもない時の関西弁!」
叔母の死の直前という緊迫した空気のなかで、思わず出た父の情けない本音と、懐かしい訛り。陽子の閉ざされた意識の奥に、かつて彩花が笑いながら話していた『和也さんの困った癖』の記憶が、優しく、温かく灯る。
「……じゃあ、読むね」
穂香が封を開けた、その瞬間。
かすかに、本当にわずかに、彩花の香りがした気がした。
懐かしい……
大好きな、母の匂い……
書かれた日付は、三十三年前の、あの時のままだ。
***
『陽子お姉ちゃんへ』
お姉ちゃん。いつも私の味方でいてくれて、たくさん優しくしてくれて、本当にありがとう。この手紙を読んでいるということは、私は一足お先に、天国に行ってしまったんだね。
穂香と優美に、母親らしいことを何一つしてあげられなくなることだけが、私の唯一の心残りでした。でもね、お姉ちゃんが私に代わって、あの子たちを見守ってくれるって約束してくれたから。だから私は安心して、残りの人生を、精一杯、笑顔で生きることができたんだよ。あのとき、私の背中を優しくさすってくれたこと、とっても嬉しかった。お姉ちゃんの手はね、私の命の、最後の最後の支えだったよ。
そしてね。
お姉ちゃんはきっと、私のこの病気を受け入れられなくて、苦しんでいるんじゃないかな。だって、私だって、お姉ちゃんにこんなボロボロの姿、本当は見せたくないもん。
《耳に届く穂香の声が、次第に涙と嗚咽でたどたどしくなっていく》
だから、いいんだよ。お見舞いに来られなくなっちゃっているの、私、ちゃんと分かっているからね。だって、私たち、姉妹だもん。お姉ちゃんの考えていることなんて、ぜんぶお見通しだよ。
《っ……お母さん……っ、お母さん……!》
だから、お願い。自分を絶対に責めないで。もし私が逆の立場だったら、そんなお姉ちゃんのこと、辛すぎて受け入れられないもの。だから、ね? 自分を責めないで。お姉ちゃんは、何も悪くない。
私だってね、お姉ちゃんの前では、最期まで「強くて立派な、笑顔の妹」のままでいさせてほしかったの。和也も、みんなも、お姉ちゃんの優しい心の痛みを、ぜんぶ分かっているからね。
お姉ちゃん、ありがとう。
私は、お姉ちゃんの妹でいられて、本当に、本当に幸せでした。これ以上、お姉ちゃんから幸せをもらっちゃったら、両手からこぼれて天国に持っていけなくなっちゃうよ。
さびしくなったら、いつでも私の名前を呼んでね。ぜったいに、すぐ側にいるから。天国からいつまでもお姉ちゃんのこと、見守っているから、安心してね。
一ノ瀬 彩花
***
「「お母さーーん!」」
大粒の涙をこぼしながら、穂香と優美は、まるでそこに彩花がいるかのように陽子の身体に抱きついた。
「陽子おばちゃんは、私たちのお母さんだよ!」
「陽子おばちゃん! ありがとう! ありがとう!」
和也も、これまで三十三年間ずっと我慢してきた寂しさが噴出するように、声を上げて大泣きしていた。
「義姉さん! 彩花の代わりに二人の娘を育ててくれて、本当にありがとう!」
「ありが……とう……ございました……!」
――穂香……優美……和也さん……
陽子は、枯れかけた意識の隙間で微かに呟いた。
これまで胸の奥底に抱え、自分を苦しめ続けてきた「後悔」という重い霧が、晴れるように消え去っていくのを感じた。
私は逃げたわけじゃなかった……
彩花は……願いを、愛を、ちゃんと受け止めていたんだ。
――刹那
白い花びらがひとひら、風に乗って遠ざかっていくように、身体が軽くなっていく……
どこまでも心地よい感覚が、彼女のすべてを包み込んでいく……
その時、陽子は不思議な懐かしい気配を感じ取った。遠くから、微かに声が聞こえた。
――お姉ちゃん……
優しくて、少し癖のある、大好きなあの声。
それは間違いなく、あの日のままの彩花の声だった。陽子の胸の中に、温かい記憶が蘇る。幼い彩花が無邪気に笑い、自分のスカートの裾を掴んで甘えていた、あの幸福な日々。
――小さな手が頬をなでた……
陽子はその声に導かれるように、最期の小さな息を吐き出した。そして、彼女の鼓動はゆっくりと、その刻みを止めた。
カーテンの隙間から舞い込んだ桜の花びらが、陽子の胸元で静かに揺れていた――
【 了 】
最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。
少しでも読書者の皆さまの心に残る作品でありましたなら幸いです。 天音空




