第8話 娘たちの祈り ―彩花side―
窓を開けると、梅のほのかな甘い香りが流れ込んできた。厳しかった冬も終わりを迎えようとしている。
彩花の余命が、一ヶ月を切った――
かつての面影は、もうどこにもない。面会のたびに小さく、弱くなっていく身体。両腕は皮膚の下から骨の形がわかるほど痩せ細り、もはや自分の力で支えることは叶わなくなっていた。
ベッドから起き上がる、ただそれだけの動作が、骨を軋ませ、呼吸を奪うほどの苦痛を伴う。かつて患者の命を救うために俊敏に動いていた自分の手足が、今はただの重たい枯れ枝のようにベッドへ沈んでいる。
そのような日々の中で、彩花の瞳に唯一、微かな希望の光が宿る瞬間があった。
「お母さん……っ!」
パタパタと静かな病室に響く、愛おしい足音。
娘たちが病室のドアを開けて入ってくるたび、彩花の乾いた唇に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
もう前のように大きな声で「おかえり」と言って抱きしめる力は残っていない。それでも、娘たちの存在だけが、今の彩花をこの世界につなぎ止める唯一の喜びだった。
「これからのことは、全部俺に任せておけ」
夫は何度も彩花の手を握り、そう繰り返した。
お酒を断ち、深夜の発作にも寝ずに付き添ってくれた最愛の夫。その言葉が純粋な愛情と、遺される者としての決死の覚悟から出たものであることは痛いほど分かっている。
分かっている、けれど……
――なによ! その言い方!
私がもう、いなくなる前提の人みたいじゃない!
私はまだ、ここにいる。まだ生きている。
「あきらめたらゼロや」、そう言ってくれたのに。
夫の優しさが、逆に自分の死を数えているように聞こえてしまう。そんな歪んだ受け取り方をしてしまう自分への嫌悪感と、死への恐怖。矛盾する感情が、彩花の胸をぐちゃぐちゃにかき乱していた。
「お母さん……」
ベッドの傍らに、下の娘の優美がそっと歩み寄ってきた。まだ本当に小さな手。優美の小さな手が、微かに動いた彩花の右手をぎゅっと握りしめた。
――こんなに……強く……
トクン、と彩花の心臓が跳ねる。
その手には、優美の年齢からは想像もできないほど強い力が込められていた。離さない。絶対に、お母さんをどこにも行かせない。言葉にならない優美の叫びが、その小さな手から皮膚を通して伝わってくる。握り合う指先は、小刻みに震えていた。
「お母さん、死なないよね……?」
「お母さん、死なないよね?」
「ずっと一緒にいるよね? 元気になるよね……」
涙声の、必死に紡ぎ出された言葉。その無垢な瞳には、大粒の涙がたまっていた。けれど優美は、それをこぼすまいと必死に耐えていた。どんな小さな変化も見逃さないように、お母さんの顔をじっと見つめている。
――優美……私もあなたたちの側にずっといたい……でも……もう……
優美がどれだけ、その小さな心で闘っているのか、痛いほど分かった。
優美は、私がもう助からないかもしれないことを、本能的に察しているのだ……だから必死にすがりついている。
それでも、お母さんが「大丈夫」と言ってくれれば、それを奇跡だと信じようとしている。
目を閉じれば、ほんの数年前――
エプロンの端を引っ張って、ケラケラと笑っていた無邪気な優美の姿が浮かぶ。あの日常には、もう二度と戻れない。この子たちの成長を、私は見届けられない。優美の必死な祈りが、彩花の気丈な仮面を粉々に砕いていく。
声を震わせないように、肺に残った最後の空気を絞り出すようにして、彩花は優美の手をそっと握り返した。
「大丈夫よ……」
――嘘つき。
心の中で、もう一人の自分が自分を罵る。
「すぐに良くなるから。だから……心配しないで、優美」
それが母親としての彩花にできる、精一杯の「愛情」だった。かすれた声は、どうしても震えてしまう。彩花はそっと顔をそむけ、笑顔の裏から溢れ出そうになる涙を必死に隠した。
「大丈夫だよ、優美」
その時、静かな声が病室に響いた。
長女の穂香が、優美の小さな肩にそっと手を置いたのだ。
「お母さんは看護師さんなんだから、きっと元気になる。だから、泣いちゃダメだよ」
優しく、どこか毅然とした語り口。それがただの気休めではないことは、穂香の顔を見れば分かった。妹を安心させたいという、長女としての強い意志。穂香は、すべてを分かっている。大人たちが深刻な顔で話し合っていること。お母さんの病気が、もう引き返せないところまで来ていることを。それなのに穂香は、妹の前で決して弱音を吐かなかった。
――穂香……あなたまで、そんなに強がって……ごめんね。子どもでいさせてあげられなくて、本当にごめんね……
その小さな背中に、穂香は妹の不安を、そして母親が消えゆくという世界の崩壊を、たった一人で背負い込もうとしていた。時折、穂香の瞳の奥に走る怯えと恐れを、彩花は見逃さなかった。かつて病気に怯え、陽子お姉ちゃんの後ろに隠れていた自分。今の穂香は、あの頃の陽子お姉ちゃんになろうとしている。
私を安心させるために。
優美を守るために。
優美の目から、ついに堪えきれなくなった涙がぽろぽろと溢れ出した。
「お母さーーん! 死んじゃいやだぁーー!」
「どこにもいかないでーー!」
「そばにいてーー!」
優美は彩花にしがみつく。
穂香は、そっと妹の身体を包み込んだ。
「大……丈夫だ……よ……」
「お姉ちゃん……が……ついて……いるから……」
穂香も震える声で泣いていた。
――ごめんね……ごめんね……
母親として、何もしてあげられなくて……ごめんね……
娘たちの姿が、彩花にとって人生最後の、本当に最後の希望の光だった。小さな手で握り返してくる温もり。無邪気に、必死に自分を見つめる視線。あの子たちの笑顔が、最後まで生きる力を与えてくれる。それは間違いのない、生きている証。
――だからこそ。
そのあどけない娘たちを残して逝かなければならないという現実が、今の彩花には死よりもまさる痛さだった。




