第7話 小さなしあわせと止められない時の流れ
本格的な化学療法が始まる直前のこと。手続きを終えた病院からの帰り道、何でもない歩き慣れたはずの道で彩花の足が不意にもつれた。
――あれ……? 足に、力が入らな――
ドサッ!! 鈍い音が響く。
診断の結果は――両足の骨折。
看護師として、患者の「歩む力」を支えてきたはずの彼女が、自分の足さえもコントロールできなくなっていた。
緊急手術が必要となり、予定されていた化学療法は遅れることとなった。
――その時間さえ、病魔には十分すぎた。
足の手術が無事に終わり、化学療法が開始となる精密検査の結果が医師から告げられた。
「がんが脳に転移しています」
乳がんはすでに、彼女の脳にまで転移していたのだ。
そして――
「余命、あと三ヶ月」
その言葉が告げられた瞬間、彩花の世界は音もなく崩れ落ちた。
驚きと悲しみと諦め。幾つもの感情が複雑に入り混じり、もはや他人には、その表情から何を感じているのか読み取れないほど深く凍りついていた。
何より残酷だったのは、彩花が『看護師』だったことだ。脳への転移が何を意味するのか。これから自分を襲うであろう記憶力の低下、混濁していく意識。そして、その先に待つ結末――そのすべてを知識として「知ってしまっている」からこそ、彼女が見つめる恐怖の深さは、到底言葉で表せるものではなかった。
それでも彩花は、電話の向こうでその気持ちを一切、表に出そうとはしなかった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
受話器から聞こえる声は、驚くほどいつも通りだった。けれど、その言葉が軽やかに響けば響くほど、その奥に押し隠された絶望の重さを陽子は感じ取らずにはいられなかった。
「大丈夫。和也もついててくれるし、私は看護師だから、自分の身体のことはよく分かってるからね」
その声が届くたび、陽子の息苦しさは逃げ場を失っていった。気丈にも笑おうとする彩花の姿が、何よりも痛々しかった。
「仕事が忙しいから」
――そんなもっともらしい言い訳を理由にして、陽子は療養中の妹に会いに行くことを無意識に避けていた。本当の理由は、忙しさなんかじゃない。
――恐怖だ。
彩花と向き合えば、がんに侵され、日に日に衰えていく現実を受け入れなければならない。それは、最愛の妹の死期が刻一刻と迫っていることを認めることに他ならなかった。あんなに無邪気で、自分の背中に隠れていた小さな妹が、今、命の終わりを迎えようとしている。それを受け入れるなど、到底できるはずもなかった。
夜、電話を切ったあと、陽子は暗い部屋で何度も彩花の声を思い返した。
「大丈夫だよ」
あの言葉は、私を安心させるためだけのものじゃない……崩れそうな自分自身に必死に言い聞かせるための呪文だ。
――それなのに……っ! 私は姉なのに……! 何もしてあげられない……! 会いに行くことさえできないなんて……っ!
妹を愛する気持ちと、失うことへの恐怖。その二つの感情が胸の中で激しくぶつかり合い、自分を責め続ける日々を送っていた。
――泣いちゃダメだ。
陽子は何度も何度も自分に言い聞かせる。今、自分が泣いてしまったら。絶望の中で必死に笑顔を作っている彩花の強さを、闘いを、裏切ることになってしまう。
***
そんな陽子の葛藤の中、彩花は過酷な治療の嵐の中にいた。治療の合間、和也の提案で、がん療養で有名な温泉地へ足を運ぶ機会ができた。車の助手席。窓の外を流れる鮮やかな緑を見つめながら、彩花は静かに微笑んでいた。その横顔には、病に負けたくないという強い意志と、家族と過ごせる「今」への深い感謝が滲んでいた。
温泉の湯気が、現実を暈すように漂う。彩花の瞳には、微かな希望の光が宿っていた。——この温もりを、この幸せを、まだ手放したくない……見えない運命に抗おうとする、彼女の魂の輝きがそこにはあった。
だが現実は、どこまでも容赦なかった。脳への転移は「脳浮腫」を引き起こし、彩花はてんかんによる激しい発作に何度も襲われるようになる。深夜、突然起こる発作。そのたびに和也は飛び起き、彩花を救急搬送する。
かつて車の中で、「あきらめんかったら、ゼロやなくなる」と不器用に笑わせてくれた和也。あの日以来、大好きだった酒を完全に断った。いつ、何度、発作が起きても、一秒でも早く病院へ連れて行けるように。それは夫としての、言葉にしない覚悟だった。和也もまた、無言のまま、心で血を流し闘っているのだ。
家族全員が、彩花という消えかけた灯火を必死に支えている。その闘病生活の中で、彼女は一つのささやかな奇跡——喜びを見つけることができた。
ずっと愛してやまなかった、大好きな歌手のコンサート。
会場を包む圧倒的な熱気。耳に届く愛おしい歌声。車椅子に揺られながら、彩花の目からとめどなく涙が溢れ落ちた。好きなメロディが胸に響くたび、心の中で祈る。
――神様、お願い……この瞬間が、永遠に続いてほしい。この光が、ずっと消えないで……
その願いが叶わないことを、看護師である自分自身が一番よく知っていた。それでも今、この場所に大好きな家族と一緒にいられる奇跡に感謝した。
――がんは、誰の祈りをもってしても止められない。
コンサートから数日後。病室のベッドに横たわる彩花の姿は、ガラス細工のように痩せ細っていた。それでも、お見舞いに来る穂香と優美の前では、その瞳だけは変わらなかった。
――あの子たちが成人するまで……私は側にいられるだろうか……壁に掛けられた、小さな傷だらけの『虹色に光る聴診器』、あれをもう一度、患者さんの胸に当てる日は、もう二度と来ないのだろうか。
夜になり、部屋の灯りが消え、完全な静寂が訪れる。彩花は布団の中で一人涙を流した。その涙は、決して死への恐怖や悲しみだけではなかった。ここまで自分を支えてくれた和也への、陽子への、子どもたちへの、言葉に尽くせないほどの深い感謝。そして、自分がこれまで精一杯、命を燃やして闘い続けて来たという、静かな受容。
細く震える手が、その涙をそっと拭った。そこにはまだ微かに、彼女の生きる力が宿っていた。その力は、自分のためだけではない。愛する家族の未来を照らすために。彩花は静かに祈った……




