第6話 ひぐらしの声――二人の時間
がんの告知から、生きた心地のしない二週間が過ぎた。
夏の終わりの熱風がほんの少しやわらいだ夕暮れ。遠くから響くヒグラシの輪唱が、まるでうたかたの季節の終わりを告げているかのように物悲しく聞こえる。
親戚が集まった法事が終わり、陽子が帰り支度を始めたときだった。
「お姉ちゃん」
彩花は、ずっと握りしめていた洋服の裾をそっと離し、声をかけた。
「お姉ちゃん。久しぶりに、今夜二人でご飯食べない?」
「どうしたの急に。和也さんたちと一緒に帰らないの?」
陽子は驚いたように、珍しく少し丸まった妹の背中を見つめた。
「うん。たまには、姉妹だけでゆっくり話したいと思ってさ」
「ふーん。たまには良いわね」
陽子は微かな違和感を覚えながらも、努めて明るく笑った。
「ここから車で10分くらいのところに、美味しい和食のお店ができたの。行ってみる?」
「……うん。そこでいい」
彩花は陽子と目を合わせようとせず、どこか遠くを見つめるように答えた。
その和食店での時間は、穏やかに流れていった。
「ほんとだ、お姉ちゃん。ここのお料理、すごく美味しい……」
「でしょ? 一度、彩花を連れてきたかったの。気に入ってもらえて嬉しいわ」
陽子はいつものように、仕事の話や他愛もない出来事を話す。彩花も相槌を打つ。けれど、少しずつ会話のあいだに、不自然な「間」が落ちていった。
彩花は箸を持ったまま、何度も視線を落とす。その顔には、かつての明るさはなかった。
「彩花……なにかあったの?」
陽子は静かに箸を置き、真っ直ぐに妹を見つめた。
「いつもの貴方らしくないわよ。普段なら、どんなに忙しくても先に予定を言ってくるじゃない。……お姉ちゃんに話してみなさい」
「……」
彩花は無言のままだ。
ただ、唇の端がかすかに震えていた。その姿は、あの時——病気を告げられた中学生の妹と重なった。
「……ここでは、話しづらいのね」
陽子はそっと伝票を手に取る。
「出よっか。私のマンション、すぐ隣だから」
彩花は俯いたまま、小さく頷いた。
***
マンションの部屋に入ると、外からはいつの間にかヒグラシに代わって、鈴虫の声が響いていた。
リビングのテーブルを挟み、二人は向かい合う。
陽子が淹れたお茶からは、いつの間にか湯気は消えていた。冷えた空気だけが、静かに満ちていた。
「お姉ちゃん……」
彩花の声は、夜風のようにかすれていた。
「私……」と何度も言葉を詰まらせた。言えば、すべてが壊れてしまう気がした。
「私ね……」
長い沈黙のあと、ようやく言葉が落ちる。
「私……がんになっちゃった……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
テーブルに、大粒の染みが広がる。
「ステージⅣだって……もう、骨にも転移しているの……」
「えっ……?」
「嘘……でしょ?」
理解が追いつかない。
――がん? ステージⅣ? 骨への転移?
遅れて現実が一気に押し寄せた。
恐怖と不安、そして絶望が渦となり胸の奥に広がっていく。
「どうして……どうして……」
陽子の声が震える。
――どうしていつも……この子ばかり……!
中学生の時からインスリンの注射に耐えて、それでも努力して看護師になって、誰よりも優しく患者に寄り添い、命を救ってきたのに。こんなにも健気で素直な彩花が、どうしてこれほどの不条理を背負わされなければいけないの……!
「彩花……っ!! 私がついているから!! お姉ちゃんがついているから!!」
気づいたときには、椅子を蹴るように立ち上がり、彩花の小さな身体を強すぎるほどの力で抱きしめていた。
「お姉ちゃん……っ!! 私、怖いよ……死ぬの嫌だよぉ!!」
「大丈夫!! 彩花は死なない!! 絶対に、お姉ちゃんが死なせないから!!」
彩花は陽子の胸の中で声を上げて泣いた。
彩花がこんなふうに涙を流す姿を見たのは、臨地実習で初めて受け持ちの患者を亡くしたあの日以来だった。「看護師は涙を見せてはいけない」と強がっていた彩花が、唯一、自分の前だけで見せた涙。
でも今回は違う。
生きる希望を絶たれ「もう、この先がないこと」を悟ってしまった、あまりにも深い絶望の涙だった。
――お姉ちゃんに、もう一度だけ、背中を撫でてほしい……
ずっと心の中で願っていたその温もりに包まれながら、彩花は最後の遺言のような言葉を絞り出した。
「うぅぅ……っ。お姉ちゃん……ひとつだけ、お願いがあるの」
「なに? 言ってごらん。お姉ちゃん、何でも聞いてあげるから」
「もし私が死んだら……」
その言葉で、陽子の呼吸が詰まる。
「もし私が死んだら……私の代わりに、穂香と優美を見守ってほしいの……和也と再婚してなんて、そんな無理なことは言わない。あの子たちの成長を、私の代わりに……それだけが、私の心残りなの……」
「わかった……約束する。絶対に約束するから」
陽子は涙でボロボロになりながら、何度も彩花の背中を撫で続けた。
「でもね、彩花。お願いだから希望は捨てちゃダメ。一緒に闘おう?」
「うん……」
彩花は子供のように、濡れた瞼を何度も手で拭った。
「がんばろう。私がずっと、そばにいるから……」
陽子は妹の命の重みを、その悲痛な想いを、いっぺんに受け止めた。だが、陽子の身体は、皮肉にも彩花以上に激しく震えていた。
世界で一番愛おしい彩花が、この世界から消えてしまうかもしれない。それが恐ろしくて堪らなかった。




