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世界にたった一つのはな  作者: 天音空


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第5話 わたしの家族 —彩花side—

 玄関の重い扉を開けると、バタバタと騒がしい足音が響く。


「ただいま」


「あ、お母さん、おかえりー! あのねあのね、今日学校でね!」

「お母さん、これ見て! ひまわりの折り紙、頑張ったんだよ!」


 幼い娘たちの無邪気な笑顔と歓声が、今の彩花には胸を焦がすほど苦しかった。


――この子たちが成人するまで、私はそばにいられるの? この家族から、私が最初に消えてしまうの……?


「どうしたのおかあさん、元気ないよ」


 長女の穂香が、心配そうに覗き込んでくる。そのあどけない顔が、何よりも胸を締めつけた。


「……ううん、なんでもないよ。ちょっと今日、外来がバタバタして疲れちゃっただけ。心配かけてごめんね」と、ニコッと顔の筋肉を動かして笑ってみせる。


「おかえりなさい、彩花。二人ともお利口さんにしてたわよ」


 テーブルの上には、陽子が作ってくれた煮物が並んでいる。


「ごめんね、お姉ちゃん。またお願いしちゃって」


「いいのよ。私はこの子たちと遊べて楽しいんだから」


 陽子はそう言って、穂香と優美の頭を優しく撫でた。


「私は邪魔しちゃいけないから帰るね」


「穂香ちゃん、優美ちゃん、また来るね」


「うん、おばちゃん、また遊ぼうね」


「バイバーイ」


 無邪気な二人は陽子に手を振った。


 夕食のテーブルを囲みながら、彩花は必死に「いつも通りの明るい母親」を演じた。けれど、インスリン注射のために席を立ち、洗面台の鏡の前に立った時。そこに映っていたのは、生気を失った見知らぬ幽霊のような自分の顔だった。


 服をめくり、お腹を見る。


 そこには中学生の時から刻まれてきた、無数の小さな注射の痕。


 かつて母がインフルエンザで寝込んだとき、「ゆっくり休めば、ちゃんと治るから」と迷いのない手つきで看病した。あの時は、病気の「治し方」を知っている気がしていた。


 だが今は――

 自分の知識のすべてを総動員しても、この乳房に潜むステージⅣの病魔を、綺麗に消し去る方法が見つからない。


――もう、私の手じゃ……誰も、自分さえも、守れないの……?


 震える手で針を刺しながら、彩花は鏡の中の自分から目を逸らした。


 その夜、和也と子供たちが寝静まった後。彩花は暗いリビングで一人、ノートパソコンの青白い光に照らされていた。検索欄に、不穏なワードを打ち込む手が止まらない。画面を進めれば進めるほど、希望の光は細く、頼りなくなっていく。


『看護師としての自分』『母親としての自分』、そして『患者としての自分』。その三人が、彩花の心の中で激しく衝突していた。


――私……これまで患者さんたちに「大丈夫、希望を持ちましょう」なんて、よく言えたものよね……


 自分が当事者になったとき、それがいかに空虚で、気休めにもならないか、痛いほど分かる。


――私は今まで、なんて傲慢ごうまんな看護をしていたんだろう。自分が看護師でありながら、早期発見もできなかった。


――娘たちはどうなるの……誰が母親の代わりをやってくれるの……さみしい思いばかりさせてごめんね……その重い自責の念が、彼女を底なしの暗い淵へと引きずり込んでいく。


「お姉ちゃん……私どうしたらいいの……」


 誰にも届かない声が、夜の闇に吸い込まれる。


 脳裏に蘇るのは、かつて臨地実習で初めて受け持ちの患者を亡くしたあの日、お姉ちゃんの胸に顔をうずめて大泣きした記憶だ。


『看護師はどんなに悲しい時でも、患者さんや家族の前では涙は見せてはいけないの……』


『当然よ……泣いてもいいんだよ。彩花が泣くとき、私はいつでも受け止めてあげる』


 あの時、お姉ちゃんは背中をなでてくれた。


 だから私はずっと、その言葉を守ってきた。


 だけど今は――

 家族の前でも、そしてあの優しすぎるお姉ちゃんの前でさえも、涙を見せることができない。


――お姉ちゃんに「ステージⅣのがん」なんて言ったら……お姉ちゃん、私の代わりに傷ついて、またボロボロに泣いちゃうよ……


 やっと一人立ちして、安心させられたのに……


 でも……お姉ちゃんに……もう一度……


 背中をなでて欲しい……


 大切な人たちを傷つけたくない……

 

 その想いが、逆に彩花を深い孤独へと閉じ込めていく。


 彩花はノートパソコンを閉じ、顔をうずめて声を殺して泣いた。


***


 仕事中、ナース服のポケットにある『虹色に光る聴診器』に触れるたび、心が痛む。車椅子の老人に優しく声をかけ、温かい手で背中を支える。患者の顔に安心と希望が浮かぶ。


――私はまだ、誰かを守る側にいられている……?


 だがその裏で、心の奥に黒い感情が鎌首をもたげる。


――この人は治療して良くなって家に帰れるのに……どうして私は……


 そんな醜い嫉妬を抱く自分自身に猛烈な嫌悪感を覚える。


 ある夜――

 天使のような娘たちの寝顔を見ていた時、彩花は不意に胸が苦しくなり、たまらず部屋を飛び出した。


 ベランダの手すりにすがりつき、夜空を見上げる。星の光は、あまりにも遠く、冷たい。


「人はいつか死ぬ」


 それは看護師として何度も受け入れてきた事実だった。けれど、その「いつか」が、なぜ自分なのか。自分が死んだあとに残される家族の姿。母親の温もりを知らずに育つかもしれない娘たち。その絶望なまでの重みが、彩花の細い肩に容赦なくのしかかる。


 頬をつたう涙は、ただの悲しみではなかった。看護師としての誇りと、愛する家族を守りたいという母親としての祈りが、ステージⅣという現実に粉々に砕かれた“心の破片”だった。


「まだ、死ねない……死にたくないよ……私はどうすればいいの……?」


 お姉ちゃん……助けて――

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