↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界にたった一つのはな  作者: 天音空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/11

第4話 幸せの絶頂と身体の異変 —彩花side—

「お母さん、今日のご飯なぁに?」


「はーい、今作ってるから、ちょっと待っててね」


 小さな手が、彩花のスカートの端をつかんでいる。


 夕暮れのキッチン。

 トントン――小気味よい、まな板の音が、やわらかく響いている。西日が差し込む台所はオレンジ色に染まり、彩花の人生は今、これ以上ないほど色鮮やかな光に満たされていた。


 20代で結んだ最高の縁。


 夫の一ノ瀬和也は、同じ病院で知り合った一つ年上の理学療法士だ。


 彩花が抱える『Ⅰ型糖尿病』という背景を、「同じ医療職だから心配はいらないよ」と、静かな海のようにすべてを受け入れてくれた人だった。


 ほどなくして授かった二人の娘、穂香と優美は、彩花の凛とした強さと、和也の柔らかな眼差しを受け継ぎ、すくすくと育った。


「お母さん見て!」


 優美が得意げに一枚の画用紙を差し出した。


 保育園で描いた家族の絵だった。


 そこには、和也、彩花、穂香、優美の四人が並んで描かれている。


 頭の上には大きな太陽、空には虹、そして、家族全員が笑っていた。


「わぁ、上手に描けたね」


「えへへ!」


 優美は嬉しそうに胸を張る。


「お母さん可愛く描けてる?」


「うん。とっても可愛い」


 彩花はそう言って優美を抱き寄せた。ふわりとシャンプーの甘い香りがした。


 その時だった。


「お母さん!」


 今度は穂香がノートを抱えて駆け寄ってくる。


「今日のテストね、百点だった!」


「ほんと?」


「見て見て!」


誇らしげに差し出された答案用紙。


そこには大きな赤丸が並んでいた。


「すごいじゃない!」


 彩花は思わず笑顔になる。


 穂香も照れくさそうに笑った。


 子どもたちの成長を見るたびに思う。


 この子たちは私の宝物……


 あの日、私の一部となった糖尿病も、


 みんな、この笑顔に繋がっていたんだ……


 そんな当たり前の日常が、彩花には何よりも尊かった。


――うん、血糖値も安定してる。よし……


 自らの持病への理解もある病院で、外来看護師として働き、帰宅すれば母として台所に立つ。愛する家族の笑い声に包まれて眠る毎日。


 リビングの壁には、看護師の合格祝いに父と母、そして姉の陽子から贈られた、ところどころ小さな擦り傷のある『虹色に光る聴診器』がかかっている。


 ダブルの聴診器を握りしめ、患者さんの胸に触れ、寄り添ってきた日々。


 それは、かつて姉の背中に隠れていた彩花には、想像もできないほどの「完璧な幸福」だった。


「彩花、あまり無理するなよ? 明日の保育園の送り迎えは僕がやるから、君は少しゆっくりして」


「ふふ、ありがとう和也。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」


 そんな何気ない会話の積み重ねが、彩花の人生というパズルを美しく埋めていく。


 30代半ばを迎えようとしていた、ある秋の夜。


 お風呂上がり、湯気のこもる脱衣所の鏡の前で身体を拭いていた彩花の指先が、左胸の外側に触れた。


――えっ?


 ドクン、と心臓が不規則に跳ねる。

 指先に伝わったのは、明らかに異質な異物感だった。


 いつも外来で観察しなれている「弾力のあるしこり」とは明らかに違っていた。もっと硬く、深く、そこに根を張っているような——嫌な感触だった。


 彩花は息を止め、もう一度、今度は指の腹に少し力を込めてその場所をなぞる。


――まさか……! 少し様子を見る……?


 慌てて自分にいい聞かせ、バスローブを羽織る。しかし、一度生まれた違和感は消えない。


 数日後には、わずかなひきつれが現れた。


 腕を上げると、チクリと乳房に痛みが走る。


 看護師としての知識が、脳内で警鐘を鳴らし始める。


――嘘……嘘でしょ……


――お願い、何かの間違いであって……


 知識があるからこそ、最悪の可能性が頭に浮かんだ――


***


 診察室は、不気味なほど静かだった。


 正面の医師が、MRI画像と検査結果を見つめている。


 そして、静かに告げた。


「彩花さん……単刀直入にお伝えします。乳がんです」


「……っ」


「進行度としては、ステージⅣになります」


 その瞬間、世界から一切の音が消えた。


――ステージⅣ。


 その言葉が、氷の楔のように胸に突き刺さる。


 隣の和也も、ただ黙っていた。


 彩花は震える手で、膝の上のバッグを千切れんばかりに強く握りしめる。


――嘘だ……嘘だ……

――どうして?

――なんで、私なの?


――中学生の時から、ずっと病気と向き合って、注射の痛みに耐えて……やっと、やっと幸せになれたのに。看護師として、あんなに一生懸命、人の命を助けてきたのに。


――どうして……!


 声にならない叫びが、胸の奥で何度もこだました。


 帰り道の車内は、息苦しいほど静かだった。


 ウインカーの音だけが、一定のリズムで鳴っている。


 和也は前を向いたまま、ハンドルを握る手が微かに震えている。彩花はただ、涙も出ないまま、窓の外を流れる景色を見つめていた。これから穂香と優美に、どんな顔をして会えばいいのだろう。


 そう思った瞬間――


「あきらめたらゼロや」


「あきらめんかったら、ゼロやなくなる」


 和也が関西弁でぽつりと言った。


「……え? なにそれ!?」


 彩花が思わず吹き出す。


「カクヨムっていうサイトでな、たまたま読んだ何かの小説に書いてあってさ」


「妙にそこだけ残っててな」


「……せやから、ワシらもあきらめへん」


 和也の必死な格好悪いほどの関西弁が、彩花の冷え切った心をじんわりと温めていく。


「ふふっ、ありがとう和也」


「私は看護師よ」


 彩花の顔に、わずかに笑みが戻る。


「そうやな。彩花は看護師や。俺たちの自慢のオカンや」


「ほな帰ろか」


「……彩花、お前も関西弁になっとるで」


「ふふふ……」


「ははは」


 車は我が家に向かって静かに走り出した――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。