第4話 幸せの絶頂と身体の異変 —彩花side—
「お母さん、今日のご飯なぁに?」
「はーい、今作ってるから、ちょっと待っててね」
小さな手が、彩花のスカートの端をつかんでいる。
夕暮れのキッチン。
トントン――小気味よい、まな板の音が、やわらかく響いている。西日が差し込む台所はオレンジ色に染まり、彩花の人生は今、これ以上ないほど色鮮やかな光に満たされていた。
20代で結んだ最高の縁。
夫の一ノ瀬和也は、同じ病院で知り合った一つ年上の理学療法士だ。
彩花が抱える『Ⅰ型糖尿病』という背景を、「同じ医療職だから心配はいらないよ」と、静かな海のようにすべてを受け入れてくれた人だった。
ほどなくして授かった二人の娘、穂香と優美は、彩花の凛とした強さと、和也の柔らかな眼差しを受け継ぎ、すくすくと育った。
「お母さん見て!」
優美が得意げに一枚の画用紙を差し出した。
保育園で描いた家族の絵だった。
そこには、和也、彩花、穂香、優美の四人が並んで描かれている。
頭の上には大きな太陽、空には虹、そして、家族全員が笑っていた。
「わぁ、上手に描けたね」
「えへへ!」
優美は嬉しそうに胸を張る。
「お母さん可愛く描けてる?」
「うん。とっても可愛い」
彩花はそう言って優美を抱き寄せた。ふわりとシャンプーの甘い香りがした。
その時だった。
「お母さん!」
今度は穂香がノートを抱えて駆け寄ってくる。
「今日のテストね、百点だった!」
「ほんと?」
「見て見て!」
誇らしげに差し出された答案用紙。
そこには大きな赤丸が並んでいた。
「すごいじゃない!」
彩花は思わず笑顔になる。
穂香も照れくさそうに笑った。
子どもたちの成長を見るたびに思う。
この子たちは私の宝物……
あの日、私の一部となった糖尿病も、
みんな、この笑顔に繋がっていたんだ……
そんな当たり前の日常が、彩花には何よりも尊かった。
――うん、血糖値も安定してる。よし……
自らの持病への理解もある病院で、外来看護師として働き、帰宅すれば母として台所に立つ。愛する家族の笑い声に包まれて眠る毎日。
リビングの壁には、看護師の合格祝いに父と母、そして姉の陽子から贈られた、ところどころ小さな擦り傷のある『虹色に光る聴診器』がかかっている。
ダブルの聴診器を握りしめ、患者さんの胸に触れ、寄り添ってきた日々。
それは、かつて姉の背中に隠れていた彩花には、想像もできないほどの「完璧な幸福」だった。
「彩花、あまり無理するなよ? 明日の保育園の送り迎えは僕がやるから、君は少しゆっくりして」
「ふふ、ありがとう和也。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
そんな何気ない会話の積み重ねが、彩花の人生というパズルを美しく埋めていく。
30代半ばを迎えようとしていた、ある秋の夜。
お風呂上がり、湯気のこもる脱衣所の鏡の前で身体を拭いていた彩花の指先が、左胸の外側に触れた。
――えっ?
ドクン、と心臓が不規則に跳ねる。
指先に伝わったのは、明らかに異質な異物感だった。
いつも外来で観察しなれている「弾力のあるしこり」とは明らかに違っていた。もっと硬く、深く、そこに根を張っているような——嫌な感触だった。
彩花は息を止め、もう一度、今度は指の腹に少し力を込めてその場所をなぞる。
――まさか……! 少し様子を見る……?
慌てて自分にいい聞かせ、バスローブを羽織る。しかし、一度生まれた違和感は消えない。
数日後には、わずかなひきつれが現れた。
腕を上げると、チクリと乳房に痛みが走る。
看護師としての知識が、脳内で警鐘を鳴らし始める。
――嘘……嘘でしょ……
――お願い、何かの間違いであって……
知識があるからこそ、最悪の可能性が頭に浮かんだ――
***
診察室は、不気味なほど静かだった。
正面の医師が、MRI画像と検査結果を見つめている。
そして、静かに告げた。
「彩花さん……単刀直入にお伝えします。乳がんです」
「……っ」
「進行度としては、ステージⅣになります」
その瞬間、世界から一切の音が消えた。
――ステージⅣ。
その言葉が、氷の楔のように胸に突き刺さる。
隣の和也も、ただ黙っていた。
彩花は震える手で、膝の上のバッグを千切れんばかりに強く握りしめる。
――嘘だ……嘘だ……
――どうして?
――なんで、私なの?
――中学生の時から、ずっと病気と向き合って、注射の痛みに耐えて……やっと、やっと幸せになれたのに。看護師として、あんなに一生懸命、人の命を助けてきたのに。
――どうして……!
声にならない叫びが、胸の奥で何度もこだました。
帰り道の車内は、息苦しいほど静かだった。
ウインカーの音だけが、一定のリズムで鳴っている。
和也は前を向いたまま、ハンドルを握る手が微かに震えている。彩花はただ、涙も出ないまま、窓の外を流れる景色を見つめていた。これから穂香と優美に、どんな顔をして会えばいいのだろう。
そう思った瞬間――
「あきらめたらゼロや」
「あきらめんかったら、ゼロやなくなる」
和也が関西弁でぽつりと言った。
「……え? なにそれ!?」
彩花が思わず吹き出す。
「カクヨムっていうサイトでな、たまたま読んだ何かの小説に書いてあってさ」
「妙にそこだけ残っててな」
「……せやから、ワシらもあきらめへん」
和也の必死な格好悪いほどの関西弁が、彩花の冷え切った心をじんわりと温めていく。
「ふふっ、ありがとう和也」
「私は看護師よ」
彩花の顔に、わずかに笑みが戻る。
「そうやな。彩花は看護師や。俺たちの自慢のオカンや」
「ほな帰ろか」
「……彩花、お前も関西弁になっとるで」
「ふふふ……」
「ははは」
車は我が家に向かって静かに走り出した――




