第3話 彩花の決意
彩花が高校三年生になり、進学先を決めなければならない季節が訪れた。網戸にとまったツクツクボウシは、甲高い声で秋の風を震わせていた。
どちらからともなく、言葉を探している沈黙が流れ、時計の秒針だけが、やけに大きなリズムを刻んでいた。
窓から差し込む夕日が、二人の顔を朱く染めかけたときだった。
陽子の正面に座る彩花は、一度膝の上で指を組み直し、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして決意を確かめるように唇を開く。
「……私、看護師になりたいの」
その言葉はあまりにも突然で、陽子はすぐには意味を飲み込めなかった。
――看護師になりたい。
小さな声だった。
けれど、その響きは波紋のように部屋へ広がり、陽子の胸に深く突き刺さった。
「看護師はやめなさい。大変な仕事だって、分かって言っているの?」
思わず、そう言ってしまった。
それは妹を守りたいという、姉としての衝動だった。
激務、体力の消耗、精神的な重圧。
救急外来の緊迫した空気、患者の命を預かる責任――
そのすべてが、Ⅰ型糖尿病を抱える彩花には、あまりにも厳しい現実に思えた。
しかし彩花は目を逸らさなかった。
陽子を真っ直ぐ見つめ返す。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「自分が患者として経験したことがあるからこそ、患者さんの気持ちが分かる看護師になりたい。誰かを助ける仕事がしたいの」
陽子は返す言葉を失った。彩花がどれほどの痛みと孤独を抱え、それでも前を向いて歩いてきたのか。その意志をもう、否定することはできなかった。
***
彩花は家族の反対を押し切り、同じ市内にある看護学校へ進学した。
看護学校での日々は、決して楽なものではなかった。毎日のインスリン注射、血糖値の管理、膨大な学習量。それらすべてを抱えながら、彩花は弱音を吐かず、「看護師になる」ことを目標にひたすら学び続けた。
机の上には分厚い解剖生理学の教科書。その傍らには血糖測定器と補食用のゼリーが、いつも決まった場所に置かれている。部屋に響くのは、小さな電子音とペン先がノートを走る音だけだった。
「大丈夫だから」
彩花はいつもそう言った。
――本当に、大丈夫だったのだろうか。
病気に振り回されているように見えた妹は、いつの間にか自分の病気と向き合い、折り合いをつけながら前へ進んでいた。その背中からは、言葉にしなくても伝わる、確かな強さが宿っていた。
ある日の夕食時。彩花が箸を止め、楽しそうに話し始めた。
「ねえ、聞いて。肺ってね、左右で数が違うんだよ。左は心臓があるから二つで、右は三つに分かれているの」
父も母も興味深そうに耳を傾ける。
彩花は身振りを交えながら続けた。
「でもね、すごいのはここから」
「もし一部の機能が低下しても、他の部分が一生懸命カバーし合って、私たちは息ができるんだって」
少し間を置いて、彩花は笑った。
「だからね、人間の身体って、お互いを助け合うようにできているの。……まるで家族みたいだと思わない?」
その瞳は、きらきらと輝いていた。
父も母も顔を見合わせ、自然と頬が緩む。
母がインフルエンザで寝込んだときも同じだった。
「身体を温かくして、栄養のあるものを少しずつ食べて。ゆっくり休めば、ちゃんと治るから」
そう言いながら、迷いのない手つきで看病をしていた。
――この子は、もう自分で歩いている。
守られる側ではなく、誰かを守る場所へ、いつの間にか、そんな場所に立っていた。
***
やがて臨地実習が始まった。
受け持ち患者の病態を調べ、看護計画を書き、翌日の看護実践を何度も修正する。それはもう学生ではなく、一人の看護師として向き合う時間だった。
睡眠時間はいつしか四時間ほどになっていた。
心配になった陽子は声をかけた。
「大丈夫? 無理してない?」
彩花は少し笑う。
「大丈夫だよ。看護師って体力勝負だもん」
そして、少し照れくさそうに続けた。
「患者さんの病気と看護がね、全部つながってきて……今、とても面白いの」
疲れているはずなのに、その横顔は不思議なほど輝いて見えた。
――ある日。
彩花は目に涙を溜めて帰ってきた。
「どうしたの!」
陽子は思わず駆け寄る。
彩花は首を振った。
そして声を震わせながら言う。
「……私の受け持ちの患者さんが……亡くなったの」
その瞬間。
大粒の涙が頬を伝った。彩花が声を上げて泣く姿を見たのは、あの日が初めてだった。
――ずっと、我慢していたのだろう。
陽子は何も言わず、そっと抱きしめた。
「ありがとう……お姉ちゃん。これが、人が亡くなったときの悲しさなんだね」
彩花は涙を拭いながら続けた。
「看護師はどんなに悲しいときでも、患者さんや家族の前では涙を見せちゃいけないの……」
「……でも、悲しいときは、泣いてもいいよね?」
今にも消えかかりそうな声だった。
「当然よ……泣いてもいいんだよ」
陽子は優しく背中を撫でる。
「彩花が泣くときは、いつでも私が受け止めてあげる。だから誇りを持って、看護師になりなさい」
それからだった。
彩花は何かが吹っ切れたように、実習と学業へ一心に打ち込んだ。
***
――看護師国家試験の合格発表の日。
「合格したよ!」
電話越しの声が黄色く弾んでいた。
父は嬉しそうに笑った。
「やっぱり、お母さんの子だな」
すると母がすかさず言い返す。
「何言ってるの、恭介さん。彩花の粘り強いところは私にそっくりね!」
結局、最後は母の子という結論に落ち着いた。
「彩花、おめでとう!」
「免許証を受け取ったら、本当に看護師さんね」
そして――
看護師免許証を手にした日。
「これ、私たちからのプレゼント」
「なにこれ? 開けていい?」
「いいわよ」
箱を開けた彩花は目を輝かせた。
「うわぁ……聴診器!」
「これ、いいの?」
「もちろんよ。これから必要になるでしょ」
「大人にも子どもにも使えるダブルの聴診器よ」
彩花は虹色に光る聴診器を胸に抱きしめた。
「ありがとう!」
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん。大切にするね」
彩花は看護学校を卒業すると、かつて自分が通っていた大学病院へ就職した。看護部長の理解もあり、持病も考慮され、外来の勤務となった。
患者に向き合う彩花の姿を見た日、陽子は胸を打たれた。車椅子の高齢患者に優しく声をかけ、そっと背中を支える彩花は、もう妹ではなく、一人の看護師だった。
無邪気に「お姉ちゃん」と甘えてきた妹は、もういない。
少しだけ寂しかった……けれど、それ以上に誇らしかった。




