第2話 彩花にしのびよる病
彩花が中学生になった頃、急に体調を崩した。
「彩花、あなたちょっと、水飲みすぎじゃない? さっきも飲んでいたでしょう」
「うん……なんだか喉がすごく渇くの。それに、からだがだるいの」
その声は少しかすれていた。
陽子は思わず手を伸ばし、彩花の額に触れた。
熱はない――でも、何かがおかしい。
「お姉ちゃん……どうしちゃったのかな、私のからだ」
「明日は学校を休んで。ちょうど私も仕事が休みだから、みんなで病院に行こう」
――喉の渇きと身体のだるさ。
これまで風邪ひとつひかなかった子が……
胸の奥に、嫌な予感が広がっていた。
***
――採血室。
「チクッとしますよ。気分が悪くなったら言ってくださいね」
看護師の声と尖るようなアルコールの匂いが鼻腔をつく。
彩花は注射針の先をじっと見つめていた。
検査結果が出るまでの時間が、やけに長く感じられる。待合室の長椅子に座っていた患者たちが随分と減った頃――
「若杉さん、一番診察室へどうぞ」と名前を呼ばれた。
医師が静かな声で検査結果を告げる。
「Ⅰ型糖尿病です。今後はインスリン注射が生涯必要になります。血糖のコントロールが大切です」
その瞬間、誰も言葉を返せなかった。
――えっ……?
――先生、嘘だと言って。
―― “疑いがある”だけだと言ってほしい。
「先生、その病気は……治るんでしょうか」
父の声は低く、かすかに震えていた。
「残念ですが、今の医学では完治は難しい病気です。ただし、食事療法と運動療法、そしてインスリン治療によって血糖値を適切にコントロールすれば、健康な人とほとんど変わらない生活を送ることは可能です」
穏やかな説明が、かえって現実の残酷さを際立たせた。
――どうして。
――どうして彩花が……
誰も答えられない問いだけが、診察室の中に沈んでいく。
母は無言で顎に手を当て、何かを考えているようだった。
――と、その時だった。
「お母さんも頑張る! 病気に負けない、美味しい料理をいっぱい作るんだから!」
母は明るく笑いながら、彩花の背中を軽く叩いた。
「もう、お母さんったら。いつも調子いいんだから」
「先生も言ってたでしょ、食事療法が大事だって」
彩花は少し拗ねたように笑った。
「ははっ。彩花もお母さんには敵わないな」
そのやり取りに父の顔にもようやく笑みが戻る。
母のお陰で、その場を覆っていた重たい空気は弾けとんだ。
「大丈夫だよ。先生も、ちゃんと注射すれば悪くならないって言ってたもん」
笑っているのに、彩花の声はわずかに震えていた。
――彩花の明るさは、母親譲りなのかもしれない。
陽子はたまらず、彩花の手を両手で包み込んだ。
「お姉ちゃんも、彩花が元気でいられるように協力するから。一緒に頑張ろうね」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
その手はしっとり汗ばんでいた……
***
――彩花の治療が始まった。
いや、闘病と言うべきだろう。
彩花が初めて腹部にインスリン注射をするとき、驚くほど時間がかかったことを覚えている。小さな手に握られた注射器は、まるで重たい刃物のように見えた。
彩花は息を止めるようにして、じっと針先を見つめていた。
「大丈夫? お姉ちゃんがやってあげようか」
「ううん、大丈夫。一人でできるから」
「だって、独りでやれるようにならないと……いざっていう時、困るのは私だもん」
無理に作ったような笑顔。
「だからもう、お姉ちゃんったら心配性だよ」
「あなたがいくつになっても、妹は妹なのよ。心配しないなんて……できるわけないでしょ」
「……大丈夫だから」
彩花はそう言って、視線を腹部へ戻した。
深く息を吸う。
そして――意を決したように針を刺した。
陽子は目を逸らした。見ていられなかった。強気な返事とは裏腹に、彩花は注射のたび、震える手で注射器を握りしめる。腹部には黄色や紫色の小さな痕が増えていく。
思春期を迎えた身体は、普通の女子中学生が抱える悩みとは少し違っていた。体育の着替えも、友だちとの何気ない会話も、いつの間にか、人より一歩距離を取るようになっていたのかもしれない。それでも彼女は、明るく学校へ通い続けた。友人たちには病気のことを秘密にしているようだったが、それが彼女の明るさを奪うことはなかった。むしろ彩花は、家庭でも教室でも周囲を照らす存在だった。
だから――
彼女がどれほどの痛みと葛藤を抱えていたかを間近で見ていたからこそ、その笑顔の裏に隠された強さに気づかされることが多かった。その姿を見るたび、無力で代わることもできない、滾るような腹立たしさが、陽子の全身を駆け巡る。
――ごめんね。守ってあげられなくて。ごめんね。代わってあげられなくて……ごめんね。
何度も涙をこらえた。
それでも彩花は、気づいているのかいないのか、ニコリと笑って言う。
「大丈夫だよ」
――あの笑顔に、どれだけ救われてきたのだろう。




