第1話 彩花の無邪気な笑顔
陽子は薄暗い病室の中で横たわり、ふと意識がゆっくり遠ざかっていくのを感じた。今まで感じていた痛みや苦しみが、霧のようにぼやけていく。それは、まるで自分が時間の流れを逆行し始めているかのようだった。
遠くで微かに産声が聞こえる――
全身に響くその声。嬉しさと怖さが、波のように満ちては静かに引いてゆく。
「陽子、妹が生まれたぞ」
「……お父さん?」
まっ白な光が目を射した。
消毒液の匂い、外から聞こえる風の音、せわしなく動く看護師たちの足音。
父の手はあたたかく、陽子の小さな手をしっかり握っている。
「お母さんが待っているぞ。行こうか」
父に手を引かれ、陽子は小走りに病室へ入った。ドアの横の表札には『若杉瑠璃子』と書かれている。
ベッドの上では、母が汗に濡れた顔で笑っていた。その腕の中には、小さな、小さな赤ちゃん。赤いほっぺをして、目をぎゅっと閉じている。
「うわぁ……」
胸がどきどきして、言葉が出ない。
「瑠璃子、よく頑張った」
「恭介さん、元気な子が生まれたわ」
声が次々と重なり合う。
――懐かしい声。もう二度と聞けないと思っていた、あの日の音。
陽子が十二歳のとき、彩花が生まれた。
「お母さん、触ってもいい?」
陽子は母の腕の中で眠る赤ん坊を見つめていた。
まだ世界を知らない、その小さな顔。
ふにゃりと動く唇。握りしめた小さな手。
見ているだけで胸が熱くなる。
母は少し疲れた笑顔で、陽子にそっと言った。
「触ってごらん。優しくね」
陽子は息をのんだ。震える指先を伸ばし、妹の頬にそっと触れる。
「あったかい……」
自分の声が、いつもより小さく震えていた。
――やわらかくて、命の匂いがする。
母が微笑み、父が陽子の肩に手を置く。
「今日からお姉ちゃんだな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがふっと灯った。
「うん。こんにちは赤ちゃん。わたしがお姉ちゃんよ」
それが、彩花との最初の会話だった。
***
――初めて抱き上げた日のことを、陽子は今でも鮮明に覚えている。
「お母さん、彩花を一緒に拭かせて」
「いいけど、気をつけてね。こうやってやるのよ」
母は彩花をそっと抱き上げ、敷いてあったバスタオルの上に寝かせた。湯上がりの小さな体から、石けんの香りがふわりと漂う。陽子は両手でバスタオルを広げ、包み込むようにくるんだ。
その瞬間――彩花が「キャッキャ」と笑い声をあげ、手足をバタバタと動かした。無邪気なその反応が、胸の奥にあたたかな光を流し込む。
「ほら、お母さん。彩花が私を見て笑っているよ!」
「あなたはお姉ちゃんだものね。しっかりしないと、彩花に笑われちゃうわよ」
「わかってるって。私が彩花を守るんだから」
陽子はもう一度、彩花をそっと抱き上げた。柔らかな体。手に伝わる体温。かすかに震える呼吸。そのすべてが愛おしくてたまらない。彩花のつぶらな瞳が、まっすぐ陽子を見つめていた。
――ねぇ、今のあなたには何が見えているの?
――お母さんも、私をこんなふうに抱いていたのかな……
***
――あれは、初めて彩花がお座りできるようになった頃だっただろうか。
「できた、できた。彩花、えらい。座れるようになったね。彩花は私の妹だもんね」
お座りができるようになったばかりの彩花は、後ろに転げてはケタケタと笑った。それがおもしろいのか、何度も何度も繰り返して見せる。
やがて自分でも止まらなくなって、またケタケタと笑う。その笑い声が部屋いっぱいに広がっていく。
親せきの家でミルクを飲ませていたときのこと。彩花の体から、ほのかにお乳の香りがした。その匂いを吸い込むたび、胸の奥がふわっと温かく満たされていく。
「偉いわね、陽子ちゃん。立派にお姉ちゃんができてるじゃない」
テーブルの向こうで、叔母が目を細めて言った。
「だって、もう中学生だもん。これくらい簡単だよ」
少し照れながら、陽子は続ける。
「お母さんがいなくても、姉として当然でしょ」
彩花の口元についたミルクを、指でそっとぬぐう。
その瞬間、彩花がぱっと顔を上げて笑った。屈託のないその笑顔と明るい笑い声。どんなにつらい日があっても、その笑顔を見るだけで心がやわらかくほどけていく。
――まるで、世界が優しくなる瞬間のように。
***
――陽子が思春期を迎えたばかりの頃。
「私には、やりたいことがいっぱいあるの。勉強、勉強って、うるさい!」
そんな言葉が口ぐせになり、イライラを募らせる日々が続いた。それでも彩花はおかまいなしに陽子の袖を小さな手でつまみ、「お姉ちゃん……遊んで」と、上目遣いで甘えてくる。
その天使のように整った顔を見ると、胸にたまっていた棘のような怒りが、ふっと剥がれ落ちていく気がした。イライラの理由なんて、どうでもよくなってしまう。
「何して遊ぶ?」
いつものように陽子は微笑み、彩花の柔らかい手をそっと握った。
「おままごと! 私がお母さんで、お姉ちゃんは私の子どもね」
毎回、同じ遊び。そして決まって、陽子が“子ども役”だった。
「陽子、ご飯の前はちゃんと手を洗うのよ」
小さな口からこぼれるその言葉は、驚くほど母親の口癖に似ていて、陽子は思わず笑ってしまう。
――この子は本当によく見ている。
そして、そのたびに思う。
誰よりも、この子の幸せを守りたい――と。
***
――たしか、彩花が小学四年生の頃だったと思う。
目を真っ赤にして帰ってきた彼女を見て、陽子はすぐに異変に気づいた。
「どうしたの? お姉ちゃんに言ってみなさい」
彩花は俯き、しばらく何も答えなかった。
沈黙のあいだ、嫌な感覚が冷たく波紋のように広がっていく。
「怒らないから。言えたら、アイス買ってあげる」
少し間を置いて、彩花がぽつりとつぶやいた。
「……クラスの男の子に、靴を隠されたの」
その靴は、陽子が彩花の誕生日にプレゼントしたものだった。体中の熱が頭まで噴き上がる。気づけば陽子は、その男の子の家へ駆け出していた。
「どうしてこんなことするの!」
大人気ないと分かっていても、抑えられなかった。
あとから追いついた彩花が、泣きながら陽子の背中にしがみつく。
「お姉ちゃん……」
陽子は振り返り、その小さな体を強く抱きしめた。
「大丈夫。お姉ちゃんが守るから」
――私の、かけがえのない妹。




