EP 2
イグニスの虚無と、賢者リーシャの徹夜の苦み
マルストア領、伯爵邸の厨房。
普段であれば、優太が作る『金曜日カレー』のスパイスの香りと、仲間たちの笑い声に包まれているはずのその場所は、今や異様な空気に支配されていた。
「……なんでだ。俺のスキルじゃ、社会に貢献できないっていうのか……。あんなに、面接の練習したのに……」
キッチンの隅で体育座りをして、ブツブツとうわ言を繰り返しているのは、ジャージ姿のマルストア領主・中村優太である。
彼は先ほど、新種の高級レタス『折れたス』を包丁で切った瞬間、脳内に直接「お祈りメール(不採用通知)」を流し込まれ、地球時代の就活トラウマを抉られて完全にダウンしていた。
「ぼ、ボス!? 一体どうされたのですか! 誰か、癒やしの魔法を!」
「落ち着きなさい、マンミア。外傷はないわ。精神干渉系の呪いか、幻覚毒の類かもしれない」
パニックに陥るケンタウロス族の騎士団長・マンミアを制し、エルフの賢者・リーシャが冷静に優太の脈を測る。
そこへ、厨房の入り口からドカドカと足音を立てて、赤い逆毛の巨漢が現れた。
「おい優太! いつまで待たせる気だ! カレーはまだか……って、何やってんだお前。まさか腹減りすぎて倒れたのか?」
竜人族のイグニスが、呆れたように腕を組む。
彼はまな板の上に放置されている、青々とした『折れたス』の山に目を留めた。
「なんだ、この美味そうな葉っぱは。優太がサラダにするって言ってた奴か。……腹の足しにはならねぇが、つまみ食いさせてもらうぜ」
「あっ、イグニス! 駄目よ、それはまだ安全性が確認されて……!」
リーシャの制止も聞かず、イグニスはまな板の上にあった、少し細長くて葉の厚い個体――【ロメインレタス風・折れたス】を鷲掴みにし、そのままバリッと豪快に丸齧りした。
「はっ、たかが葉っぱにビビってんじゃ……ん?」
モシャ……と一噛みした瞬間。
イグニス(推定350馬力オーバー、水爆未満の大火炎を吐く竜の戦士)の脳内に、あの『絶望のテレパシー』が、非常に丁寧で洗練された大人の声で直接響き渡った。
『……ご提出いただきました職務経歴書を拝見し、慎重に選考を行いました』
「あ? なんだこの声は。誰が俺様に話しかけて……」
『イグニス様のこれまでの輝かしいご経歴(竜人族としての圧倒的な武力)は大変魅力的ではございますが……』
「ガハハハ! 当然だ! 俺様を誰だと思っ――」
『現在、弊社(当ギルド)が求めているポジションの要件と、技術的なミスマッチが極めて僅かにございました。今回はご縁がございませんでしたが、データは弊社にて責任を持って破棄いたします』
「――――えっ」
イグニスの口から、食べかけのロメインレタスがポロリとこぼれ落ちた。
彼の脳内を駆け巡ったのは、「キャリアを全否定されたわけではない」という絶妙なフォローによる、大人の自尊心を最も深く抉るダメージだった。
「ミスマッチ……? 俺様の斧が……いや、炎が、今のプロジェクト(戦場)には合わないって言うのか……?」
「イグニス?」
「俺様の経歴は魅力的だったはずだろ……! なのに、ほんの僅かな技術的ミスマッチで……俺様は、必要ないって……?」
ガクッ。
マルストア領・突撃隊長にして、あらゆる魔獣を震え上がらせる最強の竜人が。
優太のすぐ隣に移動し、同じように膝を抱えて体育座りになり、虚空を見つめ始めた。
「俺様の……これまでの輝かしい実績って、何だったんだ……。データ、破棄されちまうのか……」
「嘘でしょ……!? あのイグニスが、葉っぱを一口食べただけで戦意喪失した!?」
リーシャが驚愕に目を見開く。
強靭な肉体と闘気を持つ竜人族の精神を、一瞬にして虚無の底へ叩き落とすほどの強力な呪い。これはただの魔獣や毒草のレベルではない。
エルフの賢者としての知的好奇心と、論理的思考がリーシャを突き動かした。
「……成分と魔力波長を分析する必要があるわ。マンミア、私の魔導書を開いて。解毒魔法の準備を」
「リ、リーシャ殿!? まさかあなたも食べるおつもりですか!? 危険です!」
「大丈夫よ。エルフの精神防壁は強固だわ。それに私は、優太のように就職活動で悩んだこともなければ、イグニスのように腕っ節の自信を否定されて落ち込むような単純な思考回路はしていないもの」
リーシャは自信満々に微笑むと、カゴの中にあった、ひと際みずみずしい葉を持つ【水耕栽培個体・折れたス】を一枚手に取った。
優雅な手つきで、その葉の端をほんの少しだけ口に含む。
『……先日は大変熱意ある素晴らしいご提案をいただき、誠にありがとうございました』
「(……なるほど、これが精神干渉の音声。脳に直接語りかけてくるのね。でも、これくらいなら……)」
『社内審査委員会にて厳正に審査いたしました結果、今回は【他社様の提案が、弊社の求めるコストパフォーマンスにより合致した】ため、そちらを採用することとなりました』
「――――は?」
リーシャの青い瞳が、カッと見開かれた。
『リーシャ様の提案書(魔導陣の設計図)は非常にクオリティが高く、最後まで議論が紛糾いたしましたことを申し添えます』
「……ッ!!」
リーシャの脳裏に、強烈なフラッシュバックが巻き起こった。
マルストア領の農業生産力を上げるため、何日も徹夜して、ポーションと地脈の魔力フローを完璧に計算し尽くして書き上げた、分厚い魔導陣の設計図(提案書)。
クオリティには絶対の自信があった。
しかし、それを……「他社の安い提案」に負けたというのか。
「惜しかったって……何よ……!」
「リーシャ殿!?」
「クオリティは高かったのに! 最後まで議論したなら、私の設計図を採用しなさいよ! こっちはエルフのプライドを懸けて、徹夜で資料を作ったのよ! それを……コスパが合致したからって……ッ!!」
バタッ。
マルストア領が誇る筆頭魔術師にして、常に論理的でクールな賢者リーシャが。
涙目で魔導書に突っ伏し、「うぅっ……私の提案書……他社の安売りに負けた……」と、肩を震わせて泣き始めてしまった。
口いっぱいに広がる、徹夜で作った資料がボツになった記憶と、青臭い苦味。ビジネス・コンサル編の激辛ダメージが、彼女の論理的な精神防壁を容易く貫通したのだ。
「ぼ、ボォォォス!! イグニス殿!! リーシャ殿ォォォ!!」
厨房に、マンミアの悲痛な叫び声がこだまする。
マルストア領の最高戦力であるトップ3が、夕食のサラダ作りという日常任務において、たった数枚のレタスによって全滅した。
その光景を見ていたドワーフのドルクと、宰相のルンベルスも、顔面を蒼白にして震えている。
「な、なんじゃあの恐ろしい葉っぱは! わし、コンペで負けた記憶なんて思い出したら、発狂して死んでしまうわい!」
「伯爵様たちに何というものを……! 早くルチアナ教会から高位神官を呼んでこなければ!」
大混乱に陥る厨房。
そこへ、「おや?」と呑気な声を上げて、商会の猫耳族・ニャングルが顔を出した。
「なんやなんや、えらい騒ぎでんなぁ。……あちゃー。旦那たち、もしかしてその『折れたス』、生で齧りよりました?」
「ニャングル! 貴様、伯爵様に毒野菜を売りつけたな!?」
「誤解でおまんがな! ワイはちゃんと『ただの野菜やと思ったら大間違いでっせ』って注意しましたやん!」
ルンベルスに胸ぐらを掴まれながら、ニャングルはペラペラと弁明を始めた。
「これは『折れたス』。人間の持つトラウマや、大人のプライドを直接抉るテレパシーを放つ、特殊な魔力野菜ですわ。特に、才能があったり努力してる人間ほど、その『お祈り(不採用・落選)』のダメージがデカいっちゅー、恐ろしい代物で……」
「そんなものを夕食に持ち込むな!」
「いやいや! ちゃうねん! これ、ちゃんと『塩』を振ったり、美味い『ドレッシング』をぶっかけたら、テレパシーが中和されて、ただのシャキシャキで美味い極上レタスになるんですわ! 旦那が料理する前に、教えたろ思てたのに……」
ニャングルが言い訳をしている最中だった。
「優太くーん! お弁当箱、洗っておきましたよー! ……あれ? 皆さん、床でどうしたんですか?」
銀髪の兎耳を揺らし、愛らしいエプロン姿のキャルルが、鼻歌交じりに厨房へと入ってきた。
そして彼女は、キッチン台の上に置かれていた、優太がサラダ用にちぎっておいた一枚の小さな葉――近年発見された最悪の遺伝子混入種【お友達から種(サラダ菜風)】を、何気なくヒョイとつまみ上げた。
「あ、この葉っぱ、美味しそうですね。優太くんのお料理のつまみ食い、いただきまーす!」
「ああっ! 待てキャルル!! それはまだ――ッ!!」
虚無の淵からギリギリのところで意識を取り戻した優太が、叫びながら手を伸ばす。
しかし遅かった。
キャルルは、その青々としたサラダ菜を、パクリと口に含んでしまったのである。
マルストア領を揺るがす「折れたス・パニック」は、ついに最悪の事態(ヤンデレ月兎族の号泣)へと突入する。




