第九話 見捨てぬ理由
伊東の間者を斬らずに帰した一件から、さらに半月が過ぎた。
真幸院の境目には、相変わらず不穏な気配が漂っていた。伊東方が大敗の借りを返そうと、小規模な兵を送り込んでは、境目の村々を小突き回すようなことが続いている。義弘は、その対処の多くを義誠に任せるようになっていた。
だが、それを快く思わない者たちも、少なからずいた。
飯野城の一室で、数人の年配の郷士頭が、義弘に膝を進めていた。
「義弘公、恐れながら申し上げます。義誠殿への信頼が篤いことは重々承知しておりますが、あの若さで、これほどの権を任せるのは、いささか性急ではございませぬか」
「木崎原の策も、間者への処し方も、確かに結果は出しておる。だが、あれは人の心を持った将のやることか、と申す者もおりまする」
「味方すら駒として数える者に、命を預けるのは御免だ、という声も……正直、少なからず耳にいたします」
義弘は、しばらく黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「そなたらの懸念、分からぬではない。ならば、良い機会だ。今度の境目の見回り、義誠に任せる組に、蔵人、お主も加われ」
名を呼ばれた古参の郷士、蔵人が、驚いたように顔を上げた。
「儂に、でございますか」
「お主は、義誠のやり方に、最も苦い顔をしておる一人であろう。ならば、その目で見届けてくるがいい。あの男が、本当に人の心を持たぬのかどうかをな」
蔵人は、複雑な表情を浮かべながらも、頭を下げるほかなかった。
その日、義誠は境目の見回りに、十人ほどの郷士を率いて出ていた。その中に、蔵人の姿もあった。木崎原の戦にも出た古参で、あの捨て駒の献策を、誰よりも苦々しく思っている一人だった。
「この先の谷、伊東の斥候が潜んでいる恐れがある。二手に分かれ、私が率いる組が先に様子を探る」
義誠がそう告げると、蔵人が鼻を鳴らした。
「また、誰かを先に行かせるつもりか。木崎原の時のようにな」
「危うい役目だからこそ、私が先に立つ」
「口ではそう言うが、次に危うい場に立たされるのは、儂らのような下の者だろう」
言葉に棘があった。周りの郷士たちも、気まずそうに目を伏せる。義誠は、それに反論しなかった。反論したところで、蔵人の中にある不信が、すぐに消えるとは思えなかった。
「疑うなら、疑ったままでよい。だが、今は谷を探ることが先だ」
一行は、二手に分かれて谷筋へと進んだ。義誠が先に立ち、蔵人の組は、少し遅れて後方を固める形になった。前世の記憶にある「まず先頭に立つ者が、最も情報を早く得る」という理屈は、この時代でも変わらない。危うい役目を人に押し付けず、自ら先に立つことで、少しずつでも、蔵人たちの目に映る自分を変えられればと、義誠は思っていた。
谷に踏み込んで間もなく、異変が起きた。
義誠の組が先に谷の奥を確かめ、引き返そうとした矢先、茂みの奥から、複数の伊東方の兵が姿を現し、後方にいた蔵人の組へ襲いかかったのだ。数はこちらより多い。しかも、狭い谷筋で、退路も限られている。
「くそっ、囲まれたか!」
蔵人が叫んだ。その顔に浮かんでいたのは、明らかな恐怖だった。——ここで自分たちが囮のように使い潰されるのではないか、という疑念が、恐怖に拍車をかけているのが、義誠にも分かった。
「退くな、耐えよ!」
義誠は、迷わず自らの組を蔵人たちの元へ走らせた。前世の記憶の中にある、あらゆる撤退戦の理屈が、頭の中を駆け巡る。だが、今優先すべきは理屈ではない。
——ここで蔵人たちを見捨てれば、二度と誰も、自分の下では動かなくなる。それに、これは木崎原とは違う。捨てねば全滅する場面ではない。守れる命が、ここにはある。
義誠は、伊東兵の側面に斬り込んだ。必要な相手は斬り伏せ、無駄な深追いはしない。手早く敵の陣形を崩し、蔵人たちを囲みから引き剥がす。
「退け、今のうちに!」
義誠自身が最後尾に残り、追ってくる伊東兵の足を止めた。刃を交え、一人、また一人と斬り伏せていく。肩に浅く傷を負いながらも、味方が谷の外へ抜けきるまで、その場を動かなかった。
全員が谷を脱した後、蔵人は、荒い息のまま義誠を見た。
「……なぜ、殿を務めた。儂を見捨てて、他の者だけ連れて逃げても、誰も責めはせぬ立場だろうに」
「見捨てる理由がない。お主は、今日の役目を、最後まで果たそうとしていた」
義誠は、傷口を軽く押さえながら答えた。
「木崎原で、私は確かに、多くの味方に死を求めた。だが、それは他に道がなかったからだ。今日は違う。退路があり、守れる命があった。ならば、守るのが当然のことだ」
蔵人は、しばらく黙り込んでいた。やがて、絞り出すように言った。
「……お主は、本当に、分からん男だな。損得だけで動いているようで、時折、妙に義理堅い」
「損得の内に、義理も入っているだけのことだ。今日、お主を見捨てれば、次に誰も私の下で動かなくなる。それは、この先の戦にとって、大きな損だ」
「……それだけか」
義誠は、少し間を置いてから、小さく付け加えた。
「それだけではない、とだけ言っておく」
蔵人は、その答えに、意外そうな顔をした。それ以上は、何も聞かなかった。
飯野城に戻った蔵人は、義弘に見回りの顛末を、包み隠さず語った。
「殿を買って出て、儂を助けました。あの男、損得だけで動いているようでいて……いや、うまくは言えませぬが。少なくとも、理由もなく人を切り捨てる将ではございませぬ」
義弘は、その報告に、満足げに頷いた。
「そうか。それが分かれば、十分だ」
この一件は、郷士たちの間に、静かに広まっていった。
「あの悪鬼、味方は平然と切り捨てると聞いていたが……」
「今日は、身を挺して蔵人殿を助けたそうだ」
「捨てる時は捨てる。だが、守れる時は、守る。それだけの話らしい」
恐れが完全に消えたわけではなかった。だが、その恐れに、以前とは違う色が混じり始めていた。理由のない非情ではなく、理由のある冷徹さ——それを、少しずつ、周囲も理解し始めていた。
義誠は、それでいいと思っていた。信頼されることも、恐れられることも、目的ではない。ただ、必要な時に、必要な判断ができる自分でありたい。それだけだった。
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あとがき
今回は、味方内での不信と、それが揺らいでいく過程を、蔵人という新しいキャラクターを通して、少し長めに描きました。冒頭に、年配の郷士頭たちが義弘公へ直訴する場面を加えたことで、義誠を取り巻く周囲の空気が、単なる噂話以上の、組織としての緊張として伝わればと思います。
木崎原での「捨て駒」の記憶が、味方の中に確かな傷として残っていること、そしてその傷が、義誠自身の行動によって少しずつ形を変えていく——そんな流れを意識しています。殿を自ら買って出る場面は、彼の非情さと表裏一体にある「合理的な優しさ」を見せる場面として、丁寧に書きたかった部分です。
蔵人というキャラクターは、今後も義誠を測る「物差し」のような立ち位置で、時々登場させられればと考えています。
感想、レビュー、よろしくお願いします。
次話もお楽しみに。




