第七話 義の一字
木崎原の戦から、一月ほどが過ぎた。
伊東の大軍を退けたことで、真幸院一帯には、しばしの静けさが戻っていた。だが、その静けさの中でも、城下ではある噂が絶えず語られていた。
「あの野盗討伐と木崎原の策を立てたのは、まだ元服前の小僧らしい」
「小僧が、味方を捨て駒にする策を、平然と口にしたそうだ」
「まるで悪鬼のようだと、義弘公配下の間でも言われておるとか」
誠之助は、そうした噂を聞くたびに、複雑な思いを抱いていた。恐れられることに、喜びはない。だが、否定する気にもなれなかった。あの日、味方の命を数字として語った自分は、確かにそこにいた。
——それでも、進むしかない。
前世の記憶の中にある、島津の男たちの姿を思い出す。誉れよりも結果を選び、時に非情と誹られながらも、最後まで生き延び、勝ち続けた者たち。自分もまた、その一人になろうとしている。
そんな折、有村家に、飯野城からの使いが来た。
「此度の戦功により、義弘公自ら烏帽子親となり、誠之助様の元服を執り行いたいとの仰せにございます」
父は、その知らせを聞いて、しばらく声も出せずにいた。下級武士の子弟が、当主の弟にあたる義弘自らを烏帽子親に迎えるなど、本来なら望むべくもない栄誉だった。
「誠之助……いや、お前は、いつの間にこれほどの……」
父の声は、途中で言葉にならなくなった。誠之助は、それに何も答えず、ただ深く頭を下げた。
——父上には、まだ何も話していない。前世のことも、この先に見えている遠い未来のことも。
それでいい、と誠之助は思う。理念は語らず、行動で示す。それは、家族に対しても変わらない。
元服の儀は、飯野城内の一室で、静かに執り行われた。
烏帽子親の役を務める義弘の前で、誠之助は少年の髪を落とし、初めて烏帽子をかぶった。前髪を落とした時、鏡に映る自分の顔が、少しだけ違って見えた。
——これが、武士として生きていく、最初の一歩か。
「これより後は、誠之助ではない」
義弘の声が、静かな部屋に響いた。
「儂の名から、義の一字を与える。誠之助、これより名乗るがよい——有村義誠と」
義誠。
その名を胸の中で繰り返した瞬間、誠之助は——いや、義誠は、言葉にできない感覚に襲われた。前世で、これほどまでに心を動かされた武将の名の一字を、今、自分自身が背負うことになる。
「……身に余る、光栄にございます」
声が、わずかに震えた。それを隠すことも、義誠はしなかった。ここでだけは、何かを感じている自分を、あえて見せてもよいと思えた。
儀の後、義弘は義誠を呼び、二人きりで言葉を交わした。
「城下の噂は、耳にしておろう。悪鬼などと、心無い声もあるようだな」
「……はい」
「それを、どう思う」
義誠は、しばし言葉を選んだ。
「間違ってはおらぬかと存じます。私は、味方の命すら、勝つための駒として数えました。それを、優しい言葉で誤魔化すつもりはございませぬ」
義弘は、その答えに、微かに笑った。
「儂も、同じ道を歩んできた。誉れを重んじる者たちからは、時に非情と謗られよう。だが、生き延びた者たちは、決してお主を悪鬼とは呼ぶまい」
——それは、まだ義誠の知らない、遠い未来への言葉だった。史実の中で、島津の男たちが、いずれ敵味方の双方から、畏敬をもって語られるようになる、その入り口に立っているのだと。
「これより先も、儂の下で、その才を振るってもらいたい。九州は、まだ遠い。だが、いずれ——」
義弘は、そこで言葉を止めた。だが、その目に宿る光だけは、義誠にもはっきりと伝わってきた。
——この人も、この乱世の先を見ている。
義誠は、深く頭を下げた。
胸の内では、前世からずっと抱き続けてきた思いが、静かに形を持ち始めていた。この家に生まれ、この名を賜った以上、自分の目指す先は、もう一つしかない。
——島津に、天下を獲らせる。
誰にも語らぬ、その誓いを胸に、有村義誠は、新しい名と共に、乱世の中へと歩みを進めていく。
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あとがき
今回は元服の場面を、義誠にとっての大きな節目として、丁寧に描きました。「義」の一字を賜るくだりは、単なる名前の変更ではなく、義弘公との絆と、彼自身の目標がはっきりと重なり合う瞬間として書いています。
「悪鬼」という異名についても、今回初めて本人の口から、それを否定しない形で語らせました。恐れられることを受け入れながらも、なお前へ進む——このスタンスが、これから先の物語の芯になっていくと思います。
次話以降、義誠がどのように「敵味方に恐れられる男」へと育っていくのか、具体的な流れを詰めていきたいと思います。楽しみにお待ちください。
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