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島津悪鬼録 ~敵味方に恐れられた男、島津に天下を獲らせる~  作者: 春野ケイ


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第六話 九州の桶狭間

元亀三年五月四日。


夜明け前、飯野城を発った島津勢は、木崎原へと向かった。義弘公自らが率いる囮の兵は、わずか五十。誠之助は使番として、義弘のすぐ後ろに付き従っていた。


——史実の通りなら、今日この地で、伊東の大軍が壊滅する。


だが、その「史実」は、もう誠之助一人だけのものではなくなっていた。あの評定で誠之助が描いた絵図は、今、五十人の命を乗せて、この原野を進んでいる。


——知っているだけでは、何も守れない。この目で見て、この足で走って、初めて意味を持つ。


伊東の先鋒が姿を現したのは、日が高くなり始めた頃だった。三千とも言われる大軍が、砂塵を上げて迫ってくる。誠之助の胸に、冷たいものが走った。数字では分かっていたつもりでも、実際に目にする大軍の圧は、まるで違う。


「退け!」


義弘の声を合図に、囮の五十は一斉に馬首を返した。誠之助もまた、義弘の傍らで馬を駆る。背後から、勝ち誇った伊東勢の喊声が追ってくる。


——ここからだ。



伊東の先鋒、伊東新次郎祐信が、義弘めがけて馬を寄せてきた。誠之助は思わず息を呑む。


——一騎打ちになる。


歴史書で読んだ場面が、目の前で始まろうとしていた。だが今の誠之助に、それを止める術はない。ただ見届けることしかできない。


祐信の槍が、義弘の馬の脚を薙ぎ払おうとした、その刹那——義弘の馬が、まるで意思を持つかのように、がくりと膝を折った。誠之助の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。


だが、それは偶然の幸運だった。膝をついた馬の姿勢が、祐信の槍の間合いを僅かに外させた。義弘はその隙を逃さず、体勢を崩した祐信を、鋭く討ち取った。


——膝突栗毛。後の世で、そう語り継がれる名馬の逸話が、今、目の前で生まれた。


誠之助には、それが単なる偶然だとは、どうしても思えなかった。


囮の兵は、木崎原の窪地へと退き続けた。伊東勢はその勢いのまま、雪崩を打って追撃してくる。大軍であるがゆえに、統率を欠いた追撃だった。誠之助が読んだ通りの動きだった。



「今だ!」


誠之助は、あらかじめ定めておいた合図の狼煙を上げた。


白鳥山麓に伏せていた四十の兵が、伊東勢の背後に襲いかかる。続いて、加久藤城への援軍に向かっていた六十と、加久藤城に残っていた五十が、左右から伊東勢へ突っ込んだ。


三千の大軍が、一瞬で三方から食い破られていく。


誠之助は、その光景を、馬上から見つめていた。喜びよりも先に、腹の底が冷えるような感覚があった。


——これが、自分が描いた絵図の結末だ。


矢に射抜かれ、槍に貫かれ、次々と倒れていく兵たち。敵味方の区別なく、多くの命がこの原野に散っていく。誠之助は、それから目を逸らさなかった。逸らす資格が、自分にはないと思った。


義弘の島津勢もまた、反転して伊東勢に切り込んでいく。誠之助自身も、伝令として陣の間を駆けながら、迫る敵兵の刃をかわし、必要な時には自らも刀を振るった。


——必要な殺しだ。これも、あれも。


だが、心のどこかで、初めてこの策を口にした自分自身を、責める声も聞こえていた。この惨状を生んだのは、他でもない自分だ。



戦は、夕刻近くまで続いた。


崩れた伊東勢は退却を始めたが、本地口に伏せていた最後の五十が、その退路をさらに叩いた。伊東勢の被害は、名のある将だけでも百を超え、雑兵を含めれば千に迫るとも言われた。


だが、島津側の損害も、決して軽くはなかった。参陣した将兵のうち、実に八割以上が討ち死にしたと、後に伝えられることになる。


誠之助は、戦場に横たわる、味方の骸の一つひとつを見て回った。名も知らぬ兵、少し言葉を交わしたことのある郷士——その中に、自分が「囮になってもらう」と決めた者たちの顔もあった。


——これでよかったのか。


答えは出ない。ただ、正面からぶつかっていれば、味方は間違いなく全滅していた。その事実だけが、誠之助の中に、重く沈んでいた。


義弘は、戦場を巡検し、負傷者一人ひとりに声をかけて回った。誠之助も、その後ろに黙って付き従った。


「よくやった、誠之助」


義弘の言葉に、誠之助は頭を下げることしかできなかった。喜びの言葉として、素直に受け取ることが、まだできずにいた。


その夜、飯野城に戻った将兵に、義弘自ら祝杯が振る舞われた。だが誠之助の耳には、城下のどこかから漏れ聞こえてくる、こんな囁きの方が、強く残った。


「あの若造の策で、大勝したそうだ」

「しかし、あれほど平然と、味方を捨て駒にできるとはな……」

「まるで、悪鬼のようだ」


誠之助は、それを聞いても、表情を変えなかった。


——それでいい。誉れではなく、結果を選んだ。その代償を、これからも背負っていく。



────────────────────


あとがき


木崎原の戦いを、史実に沿った形で書きました。「膝突栗毛」の逸話や、白鳥山麓・加久藤城・本地口からの伏兵の動きなど、伝わっている記録をなるべく取り込んでいます。実際の戦いでも島津側の死傷率は非常に高く、決して綺麗な勝利ではなかったという点を、誠之助の視点から重く描いたつもりです。


今回は「悪鬼」という異名が、周囲の口から初めてはっきりと語られる回になりました。策を成功させた高揚感よりも、その代償への重さの方を強く描くことで、誠之助というキャラクターの芯を保ちたいと思っています。


次話では、この戦の戦功を受けての元服、そして新たな名を得る場面を描く予定です。楽しみにお待ちいただければ幸いです。


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