第五話 捨て駒を選ぶ理由
飯野城の広間に、物々しい空気が満ちていた。
集まっているのは、義弘公配下の主だった郷士頭たち。誠之助は末席に座らされ、使番として、この評定の一部始終を見届ける役目を与えられていた。
「伊東の本隊、およそ三千。加久藤城を落とし、この飯野まで攻め寄せる腹積もりであろう」
義弘の言葉に、広間がざわめいた。飯野城に集められる兵は、寄せ集めてもせいぜい三百に満たない。十倍、いや、それ以上の開きがある。
「まともにぶつかれば、勝ち目はござらぬ」
年配の郷士頭の一人が、苦い顔で言った。誰もが同じことを思っているのが、その場の空気から伝わってくる。
——史実の通りだ。
誠之助は、内心で静かにそう呟いた。三千対三百。今、この場にいる誰もが、その数字の重さに押し潰されそうになっている。だが誠之助だけは、この先に何が起こるかを知っている。
——ここで、義弘公は「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法で、この開きを覆す。
だがそれは、誰かに授けられた策ではない。前世の記憶の中では、はっきりとした発案者の名は残っていなかった。ならば——
誠之助の頭の中で、これまで学んできた地形の記憶と、目の前の状況が組み合わさっていく。木崎原一帯は、緩やかな窪地と丘が入り組み、視界の利かぬ場所が多い。あの谷の演習と、同じ理屈が使える。ただし、今度の規模は、比べ物にならない。
「畏れながら、申し上げたきことが」
誠之助が声を上げると、広間の視線が一斉に集まった。年配の郷士頭たちの間に、露骨な不快の色が浮かぶ。
「使番風情が、口を挟む場ではないぞ」
「構わぬ。申せ」
義弘の一言で、場が静まった。誠之助は膝を進め、絵図の上に指を置いた。
「正面から迎え撃てば、数の差で押し潰されましょう。ですが、伊東勢は大軍であるがゆえに、動きが鈍うござる。ここ、木崎原の窪地に誘い込めば、大軍であることそのものが、伊東勢の枷になりまする」
「誘い込む、とは」
「小勢を囮とし、あえて破れるふりをして退かせまする。伊東の先鋒は、勢いに乗って追い、この窪地へ雪崩れ込みましょう。その時、周囲の丘に伏せておいた兵で、四方から矢を浴びせ、崩れたところを一気に叩く」
広間に、重い沈黙が落ちた。
「囮を務める兵は、生きて戻れるかどうかも分からぬ策だな」
義弘の言葉に、誠之助は一拍おいて、はっきりと頷いた。
「はい。囮の兵には、相応の死を覚悟していただくことになりましょう」
その一言に、広間の空気が変わった。
「……小僧、正気か。己の手柄のために、味方を捨て駒にすると申すか」
一人の郷士頭が、怒りを滲ませて誠之助を睨んだ。誠之助はその視線を、まっすぐに受け止めた。
「捨て駒とは思っておりませぬ。ですが、正面から当たれば、三百のほぼ全てが討ち死にいたしましょう。囮に五十、あるいは百を割いてでも、伏兵が敵の主力を崩せれば、残る二百以上は生き延びられる」
——冷たい理屈だと、自分でも思う。
だが、これが前世で読んだ歴史の中で、島津の男たちが実際に選び取った道だ。誰か一人を悪者にすることを恐れて、誰も決断できなければ、待っているのは全滅でしかない。
「何も、囮の兵を見殺しにするわけではありませぬ。伏兵の動きが早ければ、囮の損はぐっと減らせましょう。損を無くすことはできずとも、減らすことはできまする」
広間は、しんと静まり返っていた。次郎太が、誠之助の横顔を、これまでとは違う目で見つめているのが分かった。恐れとも、畏怖ともつかぬ視線だった。
「……あいつは、味方の命すら、駒として数える気か」
誰かが、そう小さく漏らすのが聞こえた。誠之助はそれに、あえて何も言い返さなかった。
必要な犠牲から目を逸らさず、それでも損を最小に抑える道を選ぶ——それこそが、誠之助の信念の、最も苦い部分だった。優しい顔だけでは、この先の乱世を生き抜けない。
長い沈黙の後、義弘が口を開いた。
「面白い」
その一言に、広間の空気が張り詰めた。
「囮の役、儂自らが率いよう。誠之助、お主の策、乗ってやる」
「な——義弘公が、自ら囮を?」
「己が言い出した策で、他人にだけ死を背負わせるようでは、大将の名が廃る。囮は儂が率いる。伏兵の差配は、お主が仔細を詰めよ」
誠之助は、深く頭を下げながら、内心で震えるような感覚を覚えていた。
——この人は、本当に、覚悟が違う。
前世で読んだ歴史書の中の「義弘」が、今この瞬間、目の前で血の通った人間として動いている。誠之助が描いた冷徹な絵図に、義弘は自らの命を差し出す形で応えてみせた。
——ならば、自分も。この策を、必ず生かしてみせる。
戦は、もう間近に迫っていた。
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あとがき
今回は、これまで「史実をなぞるだけ」になりがちだった木崎原の戦いへの流れを、誠之助自身の献策として組み立て直しました。彼が味方の犠牲を数字として語る場面は、これまでの「死人を出さぬ男」というイメージに、あえて冷たい影を落とすつもりで書いています。優しさだけでは勝てない乱世の中で、彼がどこまで踏み込めるのか——「悪鬼」という異名に、少しずつ実質が伴っていく回になったのではと思います。
義弘公が自ら囮を買って出る場面は、史実の人物像を踏まえつつ、誠之助との信頼関係を一気に深める展開として入れました。
次話でいよいよ木崎原本戦です。楽しみにお待ちいただければ幸いです。
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