第四話 谷を見ていた男
野盗の一件から、一月ほどが過ぎた。
元亀三年、卯月も半ばを過ぎた頃。飯野城下には、以前とは違う空気が流れ始めていた。日向の伊東義祐が、肥後の相良義陽と手を結び、いよいよ真幸院へ兵を寄せてくるらしい——そんな噂が、城下のどこへ行っても囁かれている。
誠之助は、その噂を聞くたびに、内心で静かに息を呑んでいた。
——史実の通りなら、あと半月もせぬうちに、木崎原で事が起こる。
三千の伊東勢に、三百に満たぬ島津勢。前世で何度も読み返した戦だ。義弘公が「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法で、数十倍の敵を打ち破る、あの戦。
だが、それを誰かに語ることはできない。「二月後にこうなる」などと口にすれば、狂人扱いされるか、良くて占い師のような目で見られるだけだ。理念は語らず、行動で示す——それは、未来を知っていることについても、変わらぬ心構えだった。
だからこそ誠之助は、自分にできることを、目の前の一つずつに絞ってきた。野盗の討伐で、村を一つ守った。それだけで十分だと、自分に言い聞かせてきたつもりだった。
その日、誠之助は郷士頭に呼び出され、飯野城への出頭を命じられた。
「な、なぜ俺が」
「知らぬ。ただ、名指しでの呼び出しだ。粗相のなきようにせよ」
胸の奥で、鼓動が速まるのを感じた。前世の記憶が疼く。飯野城——義弘公の居城だ。まさか、あの野盗討伐の一件が、城まで伝わったのか。
城内の一室に通されると、上座に一人の武士が座っていた。
その顔を見た瞬間、誠之助は息を止めた。
——谷の縁に立っていた、あの旅装束の男だ。
「久しいな、小僧」
男は、あの時と同じ、口の端をわずかに上げる笑い方をした。
「わ、私の顔を、覚えておいでで」
「忘れるものか。谷を挟んだ演習で、丘の裏を突かせた小僧だろう。あの後も、野盗の塒を三方から締め上げたと聞いた」
誠之助は、床に額をつけんばかりに頭を下げた。声が震えそうになるのを、辛うじて堪える。
——目の前にいるのは、島津義弘その人だ。
前世で、誠之助が最も心を動かされた武将。関ヶ原で敵中を正面突破し、生き延びる男。だが今、目の前にいるのは、そんな伝説の姿ではない。三十七、八の、まだ若さの残る、飯野城主としての義弘だった。
「面を上げよ。詮議のために呼んだのではない」
義弘は、誠之助の顔をしばし見つめた。
「伊東の動きは、お主も耳にしていよう」
「……はい。真幸院に、兵を寄せてくるとの噂を」
「噂ではない。すでに間者から知らせが来ておる。近々、大きな戦になろう」
誠之助の胸が、また鼓動を速める。
——来る。木崎原が。
「その戦、お主も加わってもらいたい。使番として、儂の下に置く」
思いがけぬ言葉に、誠之助は一瞬、返す言葉を失った。
使番——本陣と各隊の間を駆け、伝令や状況の報告を担う役目だ。下級武士の子弟にしては、破格の抜擢と言っていい。
「……何ゆえ、私に」
誠之助は、ようやくそれだけを絞り出した。
「理由が要るか」
義弘は、笑いながら答えた。
「谷での策も、野盗の一件も、どちらも同じことをしておる。地の利を読み、敵の動きを読み、損を最も少なく済ませる道筋を描く。それができる者は、そう多くはない。年も身分も関係ない」
——結果を見ている。誉れではなく、結果を。
それは、誠之助が誰にも語らず抱いてきた信念と、驚くほど重なる言葉だった。前世の記憶にある「義弘」という人物像と、目の前で自分を見据えるこの男が、初めて一つに繋がった気がした。
「謹んで、お受けいたします」
誠之助は、深く頭を下げた。
胸の内では、まだ言葉にできない感情が渦を巻いていた。前世で憧れた男の下に、今、自分は立っている。だが、それに浮かれている時間はない。史実の通りなら、これから数十日のうちに、この飯野の地は、九州の桶狭間と呼ばれる戦場になる。
自分が知る歴史と、目の前で起こりつつある現実。その二つが、初めて重なり合おうとしていた。
——変えるのではない。まずは、その歴史の中に、正しく立つことだ。
誠之助は、そう自分に言い聞かせた。
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あとがき
今回は、これまで遠くから見つめるだけだった「谷の武士」の正体を明かしました。史実に忠実に、義弘公は当時飯野城主として真幸院の守りを担っており、木崎原の戦いを間近に控えた時期という設定にしています。
誠之助にとって、前世で憧れていた武将と初めて言葉を交わす場面は、この物語の中でも特に思い入れを持って書きました。史実を知っているがゆえの緊張感と、それを誰にも語れないもどかしさを、彼の内面から丁寧に描いたつもりです。
次話以降、いよいよ木崎原の戦いが近づいてきます。誠之助が使番としてどう動くのか、楽しみにしていただければ幸いです。
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