第六十話 天秤の傾く先
徳川方の陣は、三方からの猛攻と、兵糧の欠乏により、その日のうちに、瓦解した。
秀忠は、旗本の主だった者たちと共に、本陣を、大きく後方へと下げざるを得なかった。追撃せんとする連合軍の将たちを、義誠は、そこで、静かに制した。
「深追いは無用にございます」
「なぜだ。今こそ、一気に押し込む時ではないか」
忠恒の問いに、義誠は、静かに首を振った。
「秀忠公を、追い詰めすぎれば、窮鼠、猫を噛みまする。江戸には、まだ、膨大な兵と財が残っておりまする。此度の勝ちで、天秤は、確かに傾きました。ですが、これで、島津が徳川を根絶やしにできるほどの力を得たわけではございませぬ」
「では、いかにする」
「これより先は、刃ではなく、言葉で決するべき局面かと存じます」
義誠は、忠恒の名代として、秀忠方との和議の場に、自ら赴くことを願い出た。
「有村殿、大事な役目だ。頼む」
忠恒の言葉に、義誠は、深く頭を下げた。
木崎原から、幾十年。刃を交える戦も、言葉を交わす戦も、幾度も潜り抜けてきた。此度が、恐らくは、最後の大仕事になろう。
会談の場に現れた秀忠は、これまでの敗北にもかかわらず、その目には、まだ、当代将軍としての矜持が、確かに残っていた。
「島津殿の使者は、そなたか。九州の悪鬼と呼ばれた男が、儂の前に立つとはな」
「畏れ入りまする」
義誠は、静かに、しかし、揺るぎない声で、言葉を続けた。
「此度の一件、島津は、徳川家そのものを、根絶やしにするつもりはございませぬ。ですが、これまでの天下の在り様には、大きな理不尽が積み重なってまいりました。関ヶ原、大坂——多くの家が、故なき仕置きにより、家を失い、あるいは、滅ぼされました」
「儂に、詫びよと申すか」
「詫びを求めておるのではございませぬ。これより先の天下の仕組みを、一部の家だけが独占するのではなく、多くの家の声を、より広く汲み取れる形に、改めていただきたいのです」
義誠が示した条件は、これまでの武力による全面的な征服とは、まったく異なるものだった。
「豊臣家の血筋——秀頼公の忘れ形見を、公に、関白として、朝廷にお認めいただきたく存じます。ただし、政の実権を、幕府から完全に奪うものではございませぬ。徳川家には、征夷大将軍として、これまで通り、武家の棟梁の座を、お認めいたします」
「では、何を望むと申す」
「これより先、天下の大事——大名の改易、加増、そして、対外の交わりに関わることは、徳川家のみの一存ではなく、島津、毛利をはじめとする、有力な家々による合議のもとで、決するものといたしたく」
秀忠は、しばし、義誠の言葉を、噛み締めるように、黙り込んでいた。
「それは……将軍の権を、大きく削ぐことになろう」
「はい。ですが、此度の戦で、あまりに多くの家が、徳川家への不信を、深く抱くに至りました。この不信を、力で押さえつけ続ければ、いずれ、また同じ戦が、繰り返されましょう。それよりも、多くの家の声を汲み取る仕組みを作る方が、長い目で見れば、徳川家にとっても、益となりましょう」
秀忠は、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、やがて、重く息を吐く。
「……そなたの申すことは分かった。だが、これを認めれば、徳川の天下は、これまでと同じ形では続かぬ」
「承知しておりまする」
義誠は、静かに答えた。
「ですが、徳川家そのものを、滅ぼすつもりはございませぬ。徳川家には、これからも、武家の棟梁として、この国を支えていただきたい」
秀忠は、しばし義誠を見つめた。
「……徳川を残したまま、天下の形を変える、ということか」
「はい。それが、此度の戦を、これ以上、広げぬための道にございます」
再び、長い沈黙があった。
やがて秀忠は、静かに目を伏せた。
「……分かった。この条件、飲もう。これ以上、この戦を続ければ、徳川家そのものが、立ち行かなくなる」
義誠は、深く、頭を下げた。
義弘公。ついに、ここまで、辿り着きました。
会談を終え、陣へと戻る道すがら、義誠は、静かに、空を見上げた。木崎原の谷で、初めて策を口にした、あの日から、四十八年。九州統一の夢は、一度、潰えた。だが、その先に、これほど大きな道が、開けていようとは、当時の義誠には、想像もつかなかった。
「有村殿、よくぞ、成し遂げられた」
忠恒の言葉に、義誠は、静かに首を振った。
「私一人の功では、ございませぬ。義弘公、豊久様、盛淳殿、甚助、そして、名も知れぬ、数えきれぬ者たちの犠牲があってこその、此度の結末にございます」
義誠は、遠く、九州の方角を見やった。
飯野の悪鬼と呼ばれた男が、ついに、島津を天下の中心へと押し上げた。
だが、義誠の胸には、達成感と共に、静かな決意が、新たに芽生え始めていた。この新しい仕組みを、いかに、この先、長く保たせていくか——それもまた、義誠にとって、これから先の、新たな戦いだった。
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あとがき
最終決戦の決着を描きました。
徳川家を根絶やしにするのではなく、天下の仕組みそのものを、より多くの家の声を汲み取れる形に改める——これが、義誠が、これまでの人生をかけて辿り着いた、彼らしい「勝ち方」です。
誉れではなく結果、そして、必要のない殺しはしない、という、物語の最初から一貫してきた信条が、この最終局面でも、貫かれる形にしました。
「島津に天下を獲らせる」という、義誠の生涯をかけた誓いは、ここに、一つの形として結実しました。
次話では、この新しい体制の下での、島津、そして義誠自身の、その後を描いていきます。
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