第五十八話 最後の采配
「兵站の綻びを衝く。だが、正面からでは、徳川方の備えを崩せぬ」
義誠は、幾晩も寝ずに練り上げた策を、忠恒、そして義弘の前に広げた。
「徳川方の補給路、淀川を遡り、京へと至る水路に頼っておりまする。ここを断てば、旗本八万騎という大軍も、いずれ、兵糧に窮しましょう。ですが、この水路は、厳重に守られており、正面からの奇襲は、すでに幾度も封じられてまいりました」
「では、いかに」
「小勢にて、夜陰に紛れ、水路の要となる淀の渡しへと忍び入り、そこに集められた兵糧を、一気に焼き払いまする。これが成れば、徳川方の勢いは、必ず鈍りましょう」
だが、この策には、大きな難点があった。淀の渡しへ至るには、徳川方の本陣近くを、大きく迂回せねばならない。露見すれば、決死の一隊は、逃げ場を失う。
「この役目、儂が引き受ける」
義弘の一言に、陣中が静まり返った。
「義弘公、なりませぬ! あまりに危うい役目にございます」
義誠は、思わず声を荒げた。木崎原の頃から、これほどまでに感情を露わにしたことは、なかったかもしれない。
「義誠、儂を止めるな」
義弘は、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「戸次川で、家久が命を賭けた。関ヶ原では、豊久、盛淳が、儂のために散った。此度も、誰かが、この役目を担わねばならぬのなら、儂以外に、誰がふさわしい」
「ですが……」
「義誠。お主は、これまで、幾度も、儂に、多くの命を守る策を授けてくれた。だが、此度は、儂の番だ。この老骨、最後に、もう一度だけ、役に立たせてくれ」
義誠は、その言葉に、返す言葉を失っていた。
その夜、義弘は、僅か百に満たぬ手勢を率い、淀の渡しへと向かった。義誠もまた、その供に加わっていた。
止められぬのなら、せめて、この目で、最後まで見届ける。
夜陰に紛れ、一行は、徳川方の警戒網を、幾度も、際どく掻い潜った。かつて、木崎原の谷で、幾人もの若者たちを導いた足取りは、老いてなお、確かなものだった。
淀の渡しに着くと、兵糧を積んだ蔵の群れが、松明の下に、静かに並んでいた。
「かかれ」
義弘の下知一下、一行は、瞬く間に、火を放った。夜空を焦がす炎に、徳川方の陣が、慌ただしく動き出す。
「引け! 深追いは無用!」
義誠の声に、一行は、速やかに、その場を離れようとした。だが、その時、追撃の一隊が、退路の一角に、姿を現した。
「殿を、お守りせよ!」
供の兵たちが、次々と、その場に踏みとどまり、追手へと刃を向けた。関ヶ原の退き口を、彷彿とさせる光景だった。義弘もまた、老いた体に鞭打ち、自ら刀を振るい、追手を退けた。
一行は、辛うじて、本陣へと帰り着いた。淀の渡しの兵糧は、ほぼ完全に灰と化し、徳川方の補給に、深刻な打撃を与えることに成功していた。
だが、義弘は、本陣に辿り着くと同時に、糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
「義弘公!」
義誠は、すぐさま、義弘の体を、抱き起こした。老いた体は、これまでの無理が、一気に押し寄せたかのように、力なく、震えていた。
「義誠……見たか、あの兵糧の燃える様を」
「はい。見事な、采配にございました」
義弘は、静かに、微笑んだ。
「これで……儂も、少しは、お主の役に……立てたか」
「十分すぎるほどに。ですが、どうか、もう、お休みくださいませ」
義弘の息は、次第に、浅くなっていった。義誠は、その手を、痛いほどに、握りしめた。
「義誠……この先は……お主に、託す。九州の悪鬼が、島津に、天下を……」
その言葉を最後に、島津義弘は、静かに、その生涯を閉じた。
義弘、逝去の報せは、瞬く間に、連合軍全体に広がった。
「あの義弘公が、自ら兵糧を焼き払い、その命を賭して、勝機を作られたのだ」
「これで、退くわけには参らぬ」
離反しかけていた家々の間にも、義弘の最期の采配が、大きな波紋を広げていった。老いてなお、自ら死地へ赴いた義弘の姿は、これまでのどんな言葉よりも、雄弁に、皆の心を、揺り動かしていた。
義誠は、義弘の亡骸の前で、一人、静かに涙を流した。これまで、幾多の犠牲を前にしても、決して人前では見せなかった涙だった。
義弘公。あなたが繋いでくれた、この最後の機を、決して無駄にはいたしませぬ。
夜明けとともに、義誠は、涙を拭い、再び、立ち上がった。
悲しみに沈む時間は、もはや、義誠には残されていなかった。
真の反攻が、いよいよ、始まろうとしていた。
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あとがき
義弘公、最後の采配と、その最期を描きました。
木崎原から四十年以上にわたって義誠を導き続けてきた義弘が、最後の戦場で自ら勝機を作り、その役目を義誠へと託すことで、生涯の幕を閉じる回です。
義弘の死が、単なる悲劇ではなく、離反しかけていた同盟を、再びまとめ上げる転機になるという展開に、この物語らしい「結果」への意志を込めました。
次話から、いよいよ、この犠牲を糧にした反攻の局面を描いていきます。
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