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島津悪鬼録 ~敵味方に恐れられた男、島津に天下を獲らせる~  作者: 春野ケイ
関ヶ原改変

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第五十話 鐘の銘

慶長十九年七月。


京、方広寺から届いた報せに、義誠は、ついにこの時が来たことを悟った。


「秀頼公が奉納なされた鐘の銘文、『国家安康』『君臣豊楽』の文言を、家康公が、家康の名を切り、豊臣の繁栄を祈願するものと難詰なされたとの由」


忠恒の御前で、義誠は、その報せを読み上げた。


史実の通りだ。


この鐘銘こそが、豊臣と徳川、両者の間に横たわっていた薄氷を、ついに割ることになる。


義誠は、これまで幾度も語ってきた予見が、いよいよ現実の形を取り始めたことに、静かな緊張を覚えていた。


「これは、言いがかりにございましょう」


忠恒の言葉に、義誠は、頷いた。


「はい。ですが、言いがかりであるかどうかは、この際、大した問題ではございませぬ。家康公が、豊臣家との決着をつける覚悟を固めておられるのであれば、この鐘銘は、そのための口実となりましょう」


「豊臣は、これに屈するのか」


「屈するにせよ、抗うにせよ、いずれ大きな戦になりましょう。片桐且元殿が、和解のために奔走なさるとの由ですが……」


義誠は、そこで、一度言葉を切った。


「家康公が、本気で豊臣家を追い詰めるおつもりなら、和解だけで収まるとは、考えにくうございます」


義誠は、この機を、これまで積み上げてきた根回しの、総決算とすべく、静かに動き始めていた。


坊津の朝を通じ、萩の毛利家へ、密かに文を送る。


「時が近づいております。ただし、我らが動くのは、両者が十分に疲弊した後。今しばらくは、静観するが肝要かと存じます」


毛利からの返り文には、こう記されていた。


「毛利もまた、同じ考えにございます。ただし、内々に、豊臣方への僅かな援助を、密かに講じる者もおるやもしれませぬ。表向きの咎めは、我らの与り知らぬところにて」


義誠は、その文を読み、静かに頷いた。


毛利も、島津と同じ道を選ぶか。


表向きは徳川に従いながら、裏では、それぞれのやり方で、来るべき時に備える。


だが、義誠は、それ以上のことを、まだ毛利には求めなかった。


今、動けば、すべてが早すぎる。


「島津は、いかに動く」


忠恒の問いに、義誠は、これまで温めてきた策を、ようやく、はっきりと口にした。


「島津は、いずれの陣営にも、深く与すべきではございませぬ。豊臣方に付けば、かつての秀吉公の恩義に応えることにはなりましょうが、家康公という、当代随一の実力者を、正面から敵に回すことになりましょう。かといって、徳川方として豊臣を滅ぼす先鋒に立てば、豊臣恩顧の家として、この先、諸大名からの信を失いかねませぬ」


「では、いかに」


「日和見に徹しまする。表向きは、家康公からの出兵要請に、様々な理由をつけて、時を稼ぎ申す。国元の疲弊が、いまだ癒えておらぬこと、遠国であるがゆえの支度の遅れ——理由には、事欠きませぬ」


義誠は、忠恒の目を、まっすぐに見据えた。


「両者が、この戦で、互いに深く傷つき、疲弊した後。その時こそ、島津が、次の一手を選ぶ番にございます」


忠恒は、しばし、義誠の言葉を、噛み締めるように黙り込んでいた。


「お主のその絵図、いつから、描いておったのだ」


「関ヶ原の後、雌伏を誓った、あの日から」


義誠の答えに、忠恒は、深く息を吐いた。


「琉球の富、毛利との糸、そして、この日和見の策……すべてが、この日のための布石であったか」


「はい。ただし、これも、まだ序の口にございます。此度の戦がどう転ぶかによって、この先の絵図も、幾らでも変わりましょう」


義誠は、静かに続けた。


「勝つ側に付くことだけが、生き残る道ではございませぬ。勝った側が、何を失い、何を必要とするのか。それを見極めることこそが、我らには肝要にございます」


忠恒は、その言葉を聞き、僅かに目を細めた。


「相変わらず、お主は、戦の先まで見ておるな」


「戦は、終わった後の方が、長うございますゆえ」


その夜。


義誠は、坊津の屋敷で、朝と共に、静かに上方から届いた文を読み返していた。


「秀頼公。あなたが、この戦を生き延びられるかどうかは、まだ分からぬ」


義誠は、誰に聞かせるでもなく、呟いた。


「だが、たとえ大坂城が落ちようとも、すべてが終わるとは限らぬ」


豊臣という名が、今後も人々の胸に残るなら、それは徳川にとって、いつか新たな火種となる。


そして、その火種を、誰が、いつ、利用するのか。


それこそが、義誠が見極めるべきものだった。


義誠は、遠く、東の空を見やった。


大坂冬の陣の幕が、静かに上がろうとしている。


三十年以上に及ぶ雌伏の果てに、義誠が描いてきた絵図は、ようやく次の段階へと進もうとしていた。


────────────────────


あとがき


方広寺鐘銘事件という、大坂の陣の直接の引き金となった史実の局面を描きました。


この事件そのものは史実に沿いつつ、その前後で、義誠がこれまで積み上げてきた根回し——琉球の富、毛利との繋がり——を、いよいよ次の段階へ進める回としています。


「日和見」という、一見消極的に見える戦略が、実は義誠の長年の絵図の中核であることも、ここで改めて明確にしました。


ただし、義誠がまだ「何が起こるか」をすべて決めているわけではありません。


大坂の陣がどのような結末を迎えるのか。

豊臣が滅びるのか、それとも何らかの形で残るのか。

その結果を見極めた上で、島津が次の一手を選ぶ。

それこそが、今の義誠にとって最も重要なことです。

次話から、いよいよ大坂冬の陣が始まります。


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