第四十九話 飢えと刃
慶長十八年、夏。
薩摩・大隅一帯を、荒れた天候が幾度も襲った。
田畑は水に浸かり、収穫は、ここ数年で最も少なくなると見込まれていた。義誠は、この年、戦の絵図ではなく、飢えとの戦いに追われることになった。
「蔵の米を、まずは民に開放いたしましょう。琉球からの交易で得た余剰の分も、惜しまず使うべきかと」
義誠の進言に、忠恒は、僅かに眉を寄せた。
「琉球の富は、いずれ来る大事のために蓄えてきたものぞ」
「民が飢え、国が乱れれば、いずれ来る大事に備える力そのものが、失われまする。今、蓄えを惜しんで、後に何もかもを失っては、本末転倒にございます」
忠恒は、しばし考えた後、頷いた。
「お主の言う通りだ。民あっての、島津の力だ」
義誠は、自ら村々を回り、被害の様子を確かめて歩いた。かつて、戦場で見た光景とはまた違う、静かな苦しみが、そこにはあった。
「有村様……こんな年寄りにまで、お気にかけていただけるとは」
老いた百姓の言葉に、義誠は、静かに首を振った。
「戦であれ、飢えであれ、民を守れずして、何の統治か。それだけのことだ」
だが、この飢饉による混乱に乗じて、思わぬ動きが、薩摩の内に忍び寄っていた。
「忠恒様の身辺に、不審な動きがあるとの由」
蔵人が、久方ぶりに、義誠の元を訪れた。
木崎原の頃から共に歩んできたこの男も、今では、家中の目付役として、重い役目を担っていた。
「不審な動き、とは」
「近頃、忠恒様の側に仕える小姓の一人が、妙な素振りを見せておるとか。飢饉のどさくさに紛れ、何やら企んでおるやもしれぬ」
義誠は、静かに、目を細めた。
毛利との繋がりを、幕府に嗅ぎつけられたか。
それとも、別の思惑か。
「その者の身元、洗ってくれ」
数日のうちに、蔵人が、詳しい報せを持ち帰った。
「その小姓、元は、飢饉で潰れた在地の郷士の子。恨みの矛先が、忠恒様ではなく、その父に領地を取り上げた、別の重臣に向いておるようだ。だが、忠恒様の御膳に近づく機会を狙い、毒を盛る算段を立てておるらしい」
義誠は、その報せに、静かに息を吐いた。
謀反でも、幕府の手先でもない。
ただの、行き場のない恨みか。
義誠は、その小姓を、密かに呼び出した。
忠恒には、まだ詳しく知らせていなかった。
「お主の父の一件、聞き及んでおる。理不尽な仕置きであったとも思う」
小姓は、震えながら、義誠を睨みつけた。
「有村様に、何が分かる……」
「分からぬ。だが、忠恒様を害したところで、お主の父は戻らぬ。それどころか、お主の一族は、根絶やしにされよう」
「どうせ、もはや……」
「どうせ、ではない」
義誠は、静かに、だが、有無を言わせぬ声で、その言葉を遮った。
「お主の父の一件、私が、改めて調べ直そう。理不尽があったのなら、正す道を探る。それが、筋というものだ」
小姓は、しばし、言葉を失っていた。
この一件について、義誠は、忠恒には、ごく簡潔に報告した。
「不穏な動きがございましたが、事なきを得ましてございます」
「詳しくは、聞かぬでおこう。お主のやり方に、任せる」
忠恒の言葉に、義誠は、深く頭を下げた。
「お任せいただいた以上、私が責を負いまする」
「分かっておる」
忠恒は、それ以上、何も尋ねなかった。
刃を交えずとも、収められる火種もある。
すべてを、力で押し潰す必要はない。
小姓の父の一件は、後日、義誠の手で、静かに調べ直された。
その結果、幾らかの不当があったことが明らかになった。
重臣への咎めは、表沙汰にはならなかったが、以後、その重臣の振る舞いには、目に見えて慎みが加わったという。
義誠は、この一件を通して、改めて思う。
飢えも、恨みも、戦とは違う形の乱れだ。
だが、そこにも、綻びを見つけ、正しく手を差し伸べる道が、必ずある。
薩摩の空に、ようやく、実りの兆しが見え始めていた。
義誠は、遠く、色づき始めた稲穂を見渡しながら、静かに、次の一手を、思い巡らせていた。
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あとがき
今回は、戦でも根回しでもない、飢えという新しい種類の危機を描きました。
民を守ることを最優先にする義誠の姿勢と、その裏で起きた、忠恒様への毒殺未遂という小さな事件を絡めています。
犯人が、悪意だけではなく、行き場のない恨みから動いていたという点にはこだわりました。
すべてを力で押し潰すのではなく、根にある理不尽を正すことで事を収める。
これもまた、義誠らしいやり方です。
戦場では敵を討ち、謀略では味方を切り捨てることもある。
それでも、目の前の民や、一人の人間が抱える恨みには、別の道を探す。
その違いこそが、義誠という男の中に残っているものなのかもしれません。
次話以降、再び、大坂の陣へ向けた大きな流れに戻っていきます。
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