第四十八話 消えた文使い
毛利家との細い糸を紡ぎ始めて、一年余りが過ぎた慶長十七年の初め。義誠の元に、ただならぬ報せが届いた。
「萩へ遣わしていた文使いの一人、甚助が、幕府の隠密と思しき者に、身柄を押さえられた模様にございます」
朝の報せに、義誠は、その場で、僅かに顔色を変えた。
「甚助は、萩からの帰り道、何を持っていた」
「毛利家中の者からの、返り文を。ただし、暗号に近い書き様にしてございましたゆえ、すぐに読み解かれることは……」
「時の問題だ」
義誠は、静かに、だが、鋭く言い切った。
甚助は、幾度も、この危うい役目を、無事にこなしてきた男だ。だが、此度は、運が悪かった。
甚助は、坊津の漁師の三男坊で、朝の交易網に連なる、忠実な男だった。腕っぷしよりも、口の堅さと、機転で重宝してきた。義誠自身、幾度か言葉を交わしたこともある。
「甚助は、いかほど堪えられましょうか」
朝の問いに、義誠は、しばし目を閉じた。
堪えられるかどうかは、問題ではない。文が読み解かれ、毛利との繋がりが明るみに出れば、島津は、謀反の疑いをかけられる。それは、これまで積み上げてきたすべてを、一夜にして失うことを意味する。
義誠は、静かに、それでも、揺るぎない声で告げた。
「甚助が捕らわれておる場所を、突き止めよ」
「はい」
「そして……解き放つのではなく、口を封じよ」
朝は、一瞬、息を呑んだ。
「有村様……甚助は、これまで、幾度も命がけで、お役目を果たしてきた者にございます」
「分かっておる」
義誠の声に、初めて、僅かな震えが滲んだ。
「分かっておる。だが、あの男が、拷問に耐えかね、あるいは、命惜しさに、何かを漏らせば、島津そのものが潰える。それは、甚助一人の命よりも、遥かに多くの者の命を、危うくすることになる」
「ですが……」
「これは、私の弱さだ」
義誠は、静かに、目を伏せた。
「私は、多くを守るために、一人を切り捨てることを、これまでも、幾度も選んできた。此度も、同じことだ」
義誠は、その夜のうちに、腕の立つ手練れを、密かに送り出した。
木崎原の頃、深水を追い詰めた夜。響野原で、間に合わずに、多くを失った夜。あの時から、私は、迷う前に動くと決めた。
甚助が囚われていた小屋では、その夜、何かの騒ぎが起こった。幕府方の見張りが僅かに緩んだ隙を突き、甚助は、命を落とした。表向きは、逃亡を図った末の落命として処理された。
誰が、最後に手を下したのか。それを、義誠は、尋ねなかった。
尋ねれば、知ってしまう。知れば、いつか、その者を責めることになるかもしれない。
だからこそ、義誠は、何も聞かなかった。
その報せを受けた時、義誠は、一人、庭に出て、しばし、月を見上げていた。
すまぬ、甚助。お主に、何の落ち度もなかった。ただ、私の描いた絵図が、お主を、その危うい役目へと引き込んでしまった。
義誠は、誰にも見せることのない、静かな痛みを、胸の内に、そっと沈めた。
翌朝、朝は、いつもと変わらぬ様子で、義誠の前に立っていた。だが、その目には、これまでにない、複雑な色が浮かんでいた。
「有村様は、これほどのことを、これまでも、幾度もなさってきたのですね」
「ああ。悪鬼と呼ばれる所以は、こういうところにもある」
義誠は、静かに、そう答えた。
「それでも、その重さから、決して目を逸らさぬのですね」
「目を逸らせば、いずれ、判断そのものが、狂う。重さを、覚えたままで、次の一手を選ぶ——それが、私にできる、せめてものことだ」
朝は、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに、義誠の傍らに立ち続けた。
毛利との糸は、これで、辛うじて繋がったままだ。だが、この先も、同じような犠牲が、幾つも積み重なるかもしれない。
義誠は、遠く、萩の方角を見やった。天下統一という夢の裏に、こうした、名も残らぬ犠牲が積み重なっていくことを、義誠は、決して忘れないと、改めて胸に刻んだ。
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あとがき
今回は、根回しの裏にある、義誠の非情さを、正面から描きました。
忠実に役目を果たしてきた甚助という男を、島津全体を守るために、義誠が切り捨てる決断をする。
これまでの「必要な殺し」の中でも、最も心苦しい種類のものだったと思います。
敵ではなく、味方の、しかも無実の者にまで犠牲を強いる。それは、義誠という男が背負う「悪鬼」の一面でもあります。
それでも、その重さから目を逸らさない。
その姿勢だけは、これからも変わりません。
毛利との細い糸は、辛うじて切れずに残りました。
ですが、その糸を守るために、義誠は一つの大きな代償を払うことになりました。
次話以降、この水面下の繋がりが、どのような形で実を結ぶのか。
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