第四十五話 本領安堵
慶長七年二月。
交渉の窓口を務めていた井伊直政が、佐和山城にて世を去った。
関ヶ原で受けた傷が、ついに癒えることはなかったのだという。
その報せは、坊津の朝の伝手を通じて、いち早く義誠の元へと届いた。
「井伊殿が……」
義誠は、しばし、言葉を失った。
史実の通りだ。
だが、その死の間際まで、直政殿が島津との和議を穏便に進めるよう、家康殿に働きかけていたという話も伝わっていた。
「井伊殿は、亡くなる直前まで、島津との和議が穏便に成るよう、幾度も言上しておられたそうです。関ヶ原で、殿の退き口を、身をもって受け止めた御方が、最後に、そのようなお言葉を残されるとは……」
朝の言葉に、義誠は、静かに目を伏せた。
刃を交えた相手だからこそ、島津の覚悟と意地の重さを、誰よりも深く知っていたのかもしれない。
義誠は、直政と直に言葉を交わしたことは、一度もなかった。
だが、退き口のあの日、鉄砲の轟音の向こうで、確かに刃を交えたはずのその男が、最期まで島津の行く末を案じていたという話に、義誠は、これまでにない、不思議な感慨を覚えていた。
恐れは、時に、憎しみだけでなく、敬意にも変わる。
それもまた、これまで幾度も、義誠自身が味わってきたことだった。
直政の死からしばらくして、交渉の窓口は、本多正信ら徳川方の重臣へと引き継がれた。
そして、その後も続けられていた交渉は、やがて、大きな結論へと至った。
「島津家の所領安堵が、正式に認められました」
その報せに、島津の重臣たちの間に、静かなどよめきが広がった。
義誠は、その報せを、義弘、忠恒と共に、飯野の地で受け取った。
「本領を、ほぼ削られることなく……」
忠恒が、掠れた声で呟いた。
西軍について敗れた大名の多くが、改易や大幅な減封を受けている中、島津が薩摩・大隅を中心とする所領を維持したことは、この乱世においても、極めて異例のことであった。
「なにゆえ、これほどの温情を」
忠恒の問いに、義誠は、静かに答えた。
「一つには、薩摩という地の隔絶した地勢。もう一つは、関ヶ原での我らの戦いぶりが、家康公に、力攻めの損得を、深く考えさせたためかと」
義誠は、少し間を置いた。
「そして……井伊殿の存在も、大きかったのやもしれませぬ」
「井伊殿が?」
「はい。関ヶ原で島津と刃を交えた御方だからこそ、我らが容易に屈することのない家であると、誰よりも理解しておられたのかもしれませぬ」
もちろん、それだけが理由ではない。
島津を武力で討つことの難しさ。
薩摩という土地の地理。
朝鮮出兵を終えたばかりの島津をさらに追い詰めることによる九州への影響。
そして、長引く交渉によって生じる、徳川側の負担。
それらすべてが積み重なり、家康は、島津を残す道を選んだのだろう。
義弘は、しばし黙り込んだ後、静かに呟いた。
「豊久、盛淳、そして、多くの兵の犠牲が……こうして、島津の家を守ることになったのだな」
義誠は、深く頭を下げた。
「はい。あの日の犠牲は、決して無駄ではございませなんだ」
その夜、義誠は、飯野の地で、これまでの歳月を、静かに振り返っていた。
木崎原の谷で、初めて策を口にした日から、実に三十年。
数えきれぬほどの戦を経て、島津は、九州統一の夢こそ潰えたものの、その家名と所領を、確かに守り抜いた。
史実では、島津は、この後、徳川の世が続く限り、雌伏の時を過ごすことになる。
だが、その雌伏こそが、次の機会への布石になる。
義誠の胸には、これまでとは違う、静かな確信が芽生え始めていた。
徳川の天下が、盤石であるように見えても、いずれ、その体制にも、綻びが生まれる時が来る。
その時のために、今、力を蓄えておく。
それこそが、これから先、義誠が歩むべき道だった。
蔵人が、静かに酒を注いだ。
「木崎原から、随分と遠くまで来た。お主のおかげで、島津は生き延びた。それだけは、間違いない」
「私一人の功ではない。皆の犠牲があってこそだ」
「分かっておる。それでも、お主がおらねば、この結末には至らなんだ。それも、また事実だ」
義誠は、その言葉に、静かに頷いた。
「まだ、終わってはおらぬ」
義誠は、誰へともなく、そう呟いた。
九州統一の夢は潰えても、島津に天下を獲らせるという、義誠自身の誓いは、この本領安堵という、異例の結末をもって、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
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あとがき
第五章、最終話です。
井伊直政の死と、その後も続いた島津と徳川の交渉。そして、島津が本領を維持するという、関ヶ原後としては異例の結末を描きました。
豊久様、盛淳殿をはじめとする、関ヶ原での犠牲が、こうして島津の家を守ることに繋がった——その思いを、この章の総決算として描いています。
また、井伊直政については、島津との和議に尽力したという伝承を踏まえつつ、直政一人の働きだけで本領安堵が決まったとはせず、薩摩の地勢や島津の軍事力、徳川側の事情など、複数の要因が重なった形にしています。
「まだ、終わってはおらぬ」という義誠の言葉は、この後の雌伏の時代、そして、その先にある大きな転機への、確かな布石です。
第五章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
感想、レビューお待ちしております。




