第四十三話 退き口
「正面から、敵中を突っ切りまする」
義誠の言葉に、周りに控えていた将兵が、息を呑んだ。
「後方は、すでに東軍の大軍に塞がれておりまする。ならば、最も守りの薄いところ——徳川本陣の脇を、まっすぐに突き抜けるほかございませぬ」
「本陣の脇、だと。正気か」
「正気にございます。誰もが、退路は後方にあると思い込んでおりましょう。だからこそ、その裏をかき、前へ、最も敵の意表を突く道を選びまする」
義弘は、しばし目を閉じた後、静かに頷いた。
「良かろう。皆の者、心してかかれ」
采配は、豊久が執った。
「殿を、必ず薩摩へお返しする。それだけを考えよ」
豊久の声に、義誠は、深く頷いた。
この戦において、義誠にできることは、もはや、退路の一点を見極めることだけだった。
「敵の追撃を止めるため、我らは、小勢に分かれ、道々で足を止めまする。決して一箇所に留まらず、追手が来れば、その場で迎え撃ち、討ち死にを恐れず、次の者へ、道を繋ぐ」
捨て奸。
この戦法の名を、義誠は、前世の記憶の中で知っていた。
だが、それを、今、目の前の者たちに命じることになるとは、想像もしていなかった。
「この策、多くの命を、失うことになりましょう」
義誠が、静かにそう告げると、豊久は、笑みを浮かべた。
「承知の上だ。殿の命を繋ぐためなら、惜しくはない」
島津勢の残兵が、徳川家康の本陣近くを、まっすぐに突き進んだ。
「かかれ!」
義弘を守るように、兵たちが、次々と敵中へ切り込んでいく。
東軍の諸隊が立ちはだかる中、島津勢は、その間隙を縫うように前へ進んだ。
義誠は、義弘のすぐ傍らで、馬を駆っていた。
矢玉が、幾度も傍らをかすめる。
「殿を先へ! 我らがここで食い止める!」
数十人の兵が、その場に踏みとどまり、追手へと刃を向けた。
追手が、その一団を討ち果たすと、また新たな一団が、次の地点で踏みとどまる。
捨て奸は、幾度も、幾度も、繰り返された。
長寿院盛淳が、義弘の甲冑を身にまとい、身代わりとなって、その場に散った。
「殿は、あちらだ! 我こそが、島津義弘なるぞ!」
その声を最後に、盛淳の姿は、乱戦の中に消えていった。
義誠は、その光景を、振り返ることさえできなかった。
振り返れば、進む足が、止まってしまう気がした。
井伊直政が、島津方の銃撃を受け、落馬した。
追撃の勢いが、そこで、僅かに緩む。
「今のうちに!」
義誠は、義弘の馬の轡を取り、なおも前へと駆けた。
豊久もまた、この乱戦の中で、深手を負っていた。
「有村殿……殿を、頼む……」
その一言を最後に、豊久の姿も、義誠の視界から消えた。
義誠は、歯を食いしばり、それでも、前へと進み続けた。
止まるな。
ここで止まれば、これまでの、すべての犠牲が、無駄になる。
島津勢への追撃は、やがて次第に緩んでいった。
義弘、義誠を含む、僅かな生存者たちは、幾多の犠牲を乗り越え、関ヶ原を離れた。
やがて、海路を得た一行は、命からがら、薩摩への帰路についた。
船上で、義誠は、ようやく、これまで堪えていたものを、一度に吐き出すように、深く息をついた。
豊久様、盛淳殿、そして、名も知らぬ多くの兵が、この道の途上で散った。
自らが描いた策が、これほど多くの命と引き換えになったことを、義誠は、決して忘れることはできないだろうと思った。
義弘は、義誠の隣で、無言のまま、遠ざかる関ヶ原の方角を見つめていた。
「殿……」
「よい。何も言うな」
義弘の声には、深い疲労と、それでもなお消えぬ、確かな覚悟が滲んでいた。
生き延びた。
だが、これで終わりではない。
義誠は、揺れる船の上で、静かに、拳を握りしめた。
豊久や盛淳の犠牲を、決して無駄にはしない。
その誓いだけが、今の義誠を、かろうじて支えていた。
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あとがき
島津の退き口を描きました。
豊久様、長寿院盛淳殿の犠牲、そして捨て奸という壮絶な戦法——これらの史実の重みを、できる限り丁寧に描いたつもりです。
義誠がこの退却策の一端を担う形にしていますが、あくまで多くの者たちの覚悟と犠牲があってこそ成し得た生還であることを、大切に描いています。
これまでの義誠の「損を最小に抑える」という信条が、この戦いでは、最も過酷な形で試されました。
そして義誠は、生き残った。
だが、関ヶ原で失ったものは、あまりにも大きかった。
次話以降、生き延びた島津が、この後、どのような道を歩んでいくのかを描いていきます。
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