第四十話 太閤、逝く
慶長三年八月十八日、豊臣秀吉が、伏見城にて没した。
その報せが、薩摩に届いたのは、朝鮮からの撤退作業が、なおも続いている最中のことだった。義誠は、泗川での勝利の余韻も冷めやらぬうちに、この報せを受け取ることになった。
史実の通りだ。
ついに、秀吉が世を去った。
前世の記憶にある、その後の歴史が、義誠の頭の中で、これまで以上に鮮明な輪郭を帯び始めていた。
秀吉という巨大な存在を失った豊臣家中は、これより、少しずつ揺らぎ始める。
そして、その揺らぎは、やがて日ノ本全土を巻き込む大きな争いへと繋がっていく。
朝鮮からの撤退を終え、義誠は、坊津の屋敷に、久方ぶりに落ち着く時を得た。
「畿内の様子、耳に入っておるか」
義誠が問うと、朝は、静かに頷いた。
「はい。堺の商人仲間からの文によれば、豊臣家中では、すでに不穏な動きが見え始めているとの由にございます」
「詳しく聞かせてくれ」
朝は、集めていた文をいくつも取り出し、義誠の前に広げた。
秀吉の死によって、豊臣家中の均衡が崩れ始めていること。
加藤清正、福島正則ら、武断派と呼ばれる武将たちと、石田三成との間に、深い溝が生じていること。
そして、徳川家康が、その情勢を見極めながら、着々と己の力を蓄えつつあること。
義誠は、それらの報せを、一つ一つ、丁寧に頭へ刻み込んでいった。
史実で読んだ通りの流れだ。
だが、確証を持って知っていることと、これほど生々しい報せとして受け取ることの間には、大きな隔たりがある。
「有村様。これらの報せ、島津にとって、どのような意味を持つのでしょうか」
朝の問いに、義誠は、しばし考えた後、静かに答えた。
「遠からず、天下を揺るがす大きな争いが起こる」
義誠は、広げられた文へ視線を落とした。
「豊臣家中の対立は、そう簡単には収まらぬ。徳川殿も、すでに動き始めておる。やがて、この二つの流れが、天下を巻き込むことになるやもしれぬ」
「島津は、どちらに」
「まだ、分からぬ」
義誠は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。今の段階で、どちらかに決めるべきではない」
「では、どうなさるおつもりで」
「どちらに転んでも、島津が生き延びる道を、今のうちから探っておく」
その言葉に、朝は、静かに頷いた。
義弘の元へ戻った義誠は、坊津で得た情報を、詳しく報告した。
「秀吉公亡き後、豊臣家中の対立は、思うた以上に早く深まりつつあるようにございます。三成殿と、徳川殿の間にも、すでに、ただならぬ緊張が生まれております」
義弘は、しばし黙り込んだ。
「義久公は、朝鮮出兵で疲弊した国力を、まず立て直すことを望んでおられる。此度の戦で失ったものも多い。できることなら、これ以上、深入りは避けたいところだが」
「私も、同じ考えにございます」
義誠は、静かに答えた。
「ですが、天下の情勢が動けば、島津だけが蚊帳の外にいることも、難しいやもしれませぬ」
「お主の見立てでは、徳川と豊臣、どちらが強い」
義誠は、その問いに、一瞬、言葉を選んだ。
ここでの答え方が、この先の島津の運命を、大きく左右しかねない。
前世の記憶では、やがて関ヶ原の戦いが起こり、徳川方が勝利する。
だが、この時点では、まだその形すら定まっていない。
家康が勝つと知っている。
その事実を、義誠だけが知っている。
「今は、どちらとも申し上げられませぬ」
「ほう」
「徳川殿の力は、確かに大きい。されど、豊臣家の名も、未だ日ノ本において重い。今後、どのような形で争いが生じるかまでは、まだ見極める必要がございましょう」
義弘は、黙って義誠を見つめた。
「ならば、どうする」
「決着がつくまでは、いずれとも、深く与するべきではないかと存じます」
義誠は、言葉を選びながら続けた。
「ただ、事の成り行きによっては、義弘公に、ご出陣いただく場面もあり得ましょう。その時のために、兵も、兵糧も、情報も、今のうちから整えておくべきかと」
義弘は、しばし考えた後、静かに頷いた。
「相変わらず、慎重なことよ」
そして、僅かに笑った。
「だが、お主のその慎重さに、これまで幾度も救われてきた」
「恐れ入ります」
義誠は、深く頭を下げた。
その夜、義誠は、坊津の屋敷で、朝と共に、静かな時を過ごしていた。
「この先、島津は、どうなるのでしょう」
朝の問いに、義誠は、しばし遠くを見つめた。
木崎原から、二十六年。
九州統一の夢は潰えたが、島津という家は、確かに生き延びてきた。
そして今、これまでとは比べものにならぬほど大きな分岐点が、目の前に迫っている。
「分からぬ」
義誠は、静かに答えた。
「だが、私にできることをするだけだ」
前世で知る歴史の中で、島津がどのような道を選ぶことになるのか。
それを、義誠は誰よりも知っている。
だが、この時代を生きる者として、その先を、ただ傍観するつもりは、もはやなかった。
歴史は、知っている通りに進むとは限らない。
まして、自分という異物が、この時代に存在している以上。
「朝」
「はい」
「これより先、坊津の伝手を、これまで以上に広げてくれ」
朝は、少しだけ目を見開いた。
「畿内の情勢を、より詳しく探るためにございますか」
「ああ」
義誠は、静かに頷いた。
「戦が始まってからでは遅い。戦になる前に、何が起きているのかを知る必要がある」
朝は、義誠の言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「承知いたしました」
天下分け目の戦は、もう、そう遠くない未来に迫っていた。
そして義誠は、前世の記憶だけでは見えなかった未来を、自らの手で探り始めようとしていた。
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あとがき
秀吉の死という、大きな節目を受け、今回は、その後の畿内情勢を描きました。
坊津の朝が持つ交易網を通じて、義誠が戦場からではなく、商人たちの情報網から天下の動きを探っていく形にしています。
秀吉という巨大な存在がいなくなったことで、これまで保たれていた均衡が、少しずつ崩れ始めました。
義誠は前世の記憶によって、この先に起こる関ヶ原の戦いを知っています。
しかし、知っているからこそ、史実をそのままなぞるのではなく、島津が生き残るために何をすべきかを考え始めます。
次話以降、いよいよ天下の情勢は、大きく動いていくことになります。
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