第三十九話 鬼石曼子
慶長三年、九月。
豊臣秀吉の命による朝鮮出兵は、すでに七年目を迎えていた。島津義弘に従い、義誠もまた、幾度か海を渡っていたが、此度、泗川の地で迎えることになる戦は、これまでのどの戦とも、規模も、意味合いも違っていた。
「明・朝鮮の連合軍、董一元率いる大軍が、泗川新城へ迫っておりまする。数万、いや、二十万とも」
物見からの報せに、義誠は、静かに息を整えた。
史実の通りだ。この戦いで、義弘公は「鬼石曼子」と呼ばれることになる。
泗川新城に籠る島津方の兵は、僅か七千。義誠は、義弘、そして、義弘の子・忠恒と共に、この城の守りについていた。
「敵は、数を頼みに、力押しで攻めてくるだろう。ならば、その勢いを、こちらの利に変えるまでのこと」
義弘の言葉に、義誠は頷いた。
「敵の兵糧を焼き払い、短期での決着を強いる形に持ち込みましょう。数が多いほど、兵糧が尽きた時の乱れも大きくなりまする」
木崎原から続く、変わらぬ理屈だ。大軍であるほど、その大きさが、いずれ枷になる。
夜陰に紛れ、義誠の指図で放たれた別動隊が、敵の兵糧蔵を焼き払った。連合軍の陣に、混乱が広がる。
十月一日、董一元は、総攻撃を命じた。数万の大軍が、泗川新城へと押し寄せる。
「引きつけよ。城壁近くまで、十分に引きつけてから、鉄砲を浴びせる」
義弘の下知に、城兵は、息を潜めて敵を待った。城壁に取りつかんとする敵の第一波に、島津方の鉄砲が、一斉に火を噴いた。
轟音と共に、敵の隊列が崩れる。さらに、敵陣に運び込まれていた火薬が、何らかの拍子に爆発し、辺り一帯が、瞬く間に混乱に包まれた。
「今だ、討って出よ!」
義弘の号令一下、城門が開かれた。義誠もまた、刀を手に、乱戦の中へと駆け出した。
「穿ち抜けよ!」
島津方が得意とする、大軍の中心を貫くように突き進む戦法——穿ち抜け。義誠は、忠恒と共に、その一角を担い、混乱する敵陣へ、深く楔を打ち込んでいった。
これまでとは、桁が違う。だが、理屈は同じだ。数の多さこそが、この乱戦の中で、敵自身の足を縛っている。
義誠は、必要な相手にだけ刃を向け、闇雲な殺戮は避けながらも、目の前に迫る敵を、一人、また一人と、確実に切り崩していった。
戦は、島津方の圧倒的な勝利に終わった。
討ち取った敵兵の数は、三万八千余に上ったと伝えられる。数万の大軍が、僅か七千の島津軍によって、完全に崩壊させられたのだ。
戦の後、義誠は、忠恒と共に、戦場の跡を見渡していた。
「これほどの戦、儂は初めてだ……」
忠恒が、掠れた声で呟いた。義誠は、それに、静かに頷いた。
「私も、これほどの規模の戦は、初めてにございます」
その夜、義弘は、義誠を呼び、静かに言葉を交わした。
「泗川で、明・朝鮮の兵が、儂のことを『鬼石曼子』と呼び始めておるそうだ」
「鬼、にございますか」
「ああ。異国の言葉で、島津を指す言葉に、鬼の字を重ねたものだという」
義誠は、その言葉に、遠い日の記憶を思い出していた。飯野の谷での演習、木崎原の谷、そして、日向の各地で囁かれた「悪鬼」という異名。
飯野の悪鬼と呼ばれた男が仕えた将が、今、異国の地で、鬼と呼ばれるまでになった。
「義弘公。此度の異名、決して悪いものではございますまい」
「ほう、なぜだ」
「恐れは、時に、刃よりも強く、敵の足を止めまする。これより先、明も朝鮮も、そして、この日ノ本の内でも、島津の名を、容易くは侮れなくなりましょう」
義弘は、その言葉に、静かに笑った。
「相変わらず、お主の考えることは、儂の一歩先を行くな」
その時だった。
陣の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
「義弘様、義誠殿。急ぎ、お伝えしたきことがございまする」
入ってきた兵の顔には、戦場から戻った者とは違う、張り詰めた色が浮かんでいた。
「何事だ」
義弘が問う。
兵は一度、息を整えた。
「豊臣家より、急ぎの報せにございます」
義弘と義誠は、顔を見合わせた。
兵は、震える声で告げた。
「豊臣秀吉公が……去る八月十八日、伏見城にて、お亡くなりになられたとのことにございます」
一瞬、部屋から音が消えた。
義誠は、言葉を失った。
知っていた。
前世の記憶が、告げていた。
秀吉は、この年に死ぬ。
だが、それを知っていることと、実際にその報せを耳にすることは、まるで違っていた。
義弘もまた、しばし沈黙していた。
「……そうか」
低い声だった。
「天下人が……逝ったか」
義誠は、静かに目を伏せた。
朝鮮の地で繰り広げられていた戦とは、別のところで、日ノ本そのものを揺るがす出来事が起きていた。
そして今、その波が、ようやくここまで届いたのだ。
義誠は、この夜、坊津にいる朝のことを、ふと思い出していた。
異国の海を渡るこの戦の裏側で、彼女が握る交易の伝手が、これから先、どれほどの価値を持つことになるか——それは、まだ、誰にも分からなかった。
だが、確かなことが一つあった。
この戦いを経て、島津の名は、これまでとは比べ物にならぬほど、重いものになった。
そして今、秀吉の死によって、日ノ本の情勢そのものが、大きく動き始めようとしていた。
義誠の胸の中で、前世の記憶にあった、その先の歴史が、静かに輪郭を帯び始めていた。
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あとがき
泗川の戦いを描きました。史実にある「鬼石曼子」という異名の誕生を、義誠の視点から、これまでの「悪鬼」という呼び名と重ね合わせる形にしています。国内で積み上げてきた評判が、異国の戦場でも、同じ形で結実する——そんな象徴的な回になればと思いました。
今回は、戦後に秀吉の死の報せが届く場面を加えました。秀吉が亡くなったのは八月十八日ですが、朝鮮の前線にその報せが届くまでには時間差があったと考えられるため、泗川での戦いを終えた後に知らせを受ける流れにしています。
ここから、秀吉の死によって日ノ本の情勢は大きく変わっていきます。義誠が前世の記憶として知っている「その先の歴史」と、実際に目の前で動き始めた歴史。その二つが、いよいよ交わり始めます。
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