第三十六話 太閤の眼
九州国分から数日後、義誠は、思いがけぬ呼び出しを受けた。
「関白殿下が、有村義誠殿に、直々にお目通りを許すとの仰せにございます」
黒田官兵衛からの使者に、義誠は、一瞬、耳を疑った。
「私に、でございますか」
「殿下は、此度の交渉のこと、いたくお気に召された様子。木崎原、耳川、沖田畷……そして、根白坂での退路の差配。その名、殿下のお耳にも、すでに届いておりまする」
義弘に相談すると、義弘は、しばし考え込んだ後、静かに頷いた。
「断れる話ではあるまい。行くがよい。だが、くれぐれも、言葉には気をつけよ」
「肝に銘じまする」
箱崎の陣所、豊臣秀吉の御前に通された義誠は、深く平伏した。
「面を上げよ」
その声は、思いのほか、軽やかで、人懐こい響きを持っていた。義誠が顔を上げると、そこには、噂に聞く「猿」というあだ名からは想像もつかぬほど、鋭い眼光を宿した男が座っていた。
これが、豊臣秀吉。天下人となる男。
前世で、幾度となく肖像画や物語の中で目にしてきた人物と、今、直に向き合っている。その事実に、義誠は、これまでにない緊張を覚えていた。
「そなたが、有村義誠か。九州のあちこちで、その名を聞いた。木崎原で寡兵を率いて勝ち、耳川、沖田畷でも、大軍を打ち破ったとか」
「過分な評判にございます」
「謙遜は、儂には効かぬぞ。根白坂の退路の差配、あれは見事なものであった。忠隣殿の隊、全滅は免れたと聞く」
義誠は、静かに頭を下げるだけで、それ以上は言葉を継がなかった。
「一つ、聞きたいことがある」
秀吉は、義誠を、じっと見据えた。
「そなた、あの黒田官兵衛を相手に、山野に籠って抗戦するとまで、脅しをかけたそうだな。あれは、本気であったか」
義誠は、一瞬の間を置いた。ここでの答え方一つが、この先の島津の立場を左右しかねない。
「本気にございました。ですが、それを実行に移すことを、私は望んではおりませなんだ。あくまで、双方にとって、最も損の少ない道を選び取るための、一つの言葉でございます」
「双方にとって、か」
秀吉は、その言葉に、興味深そうな顔をした。
「多くの武士は、己の家の存亡だけを見て、儂に膝を屈するか、無謀にも抗うか、そのどちらかしか選ばぬ。だが、そなたは、儂の側の損得までも、勘定に入れておる」
「戦とは、勝ち負けだけでなく、その後に何が残るかが肝要かと存じます。殿下におかれましても、九州平定の後には、さらに大きな御大事が控えておられましょう。ここで、いたずらに時と兵を費やすことは、殿下にとっても、益なきことと考えました」
秀吉は、しばし黙り込んだ後、大きく笑い声を上げた。
「愉快な男よ。まるで、儂の懐を覗き込んでおるようだ」
「畏れ多いことにございます」
「そなたのような男が、島津にはあと何人おるのだ。数ではなく、質で儂に抗おうとする家か。厄介なことよ」
その言葉には、官兵衛が交渉の場で漏らしたのと、よく似た響きがあった。
「そなた、儂の下で働く気はないか」
その一言に、義誠は、心の奥底で、微かな揺らぎを感じた。天下人その人からの、直々の誘い。それを断ることは、あるいは、これから先の島津の立場を、危うくすることにもなりかねない。
だが、義誠の答えは、決まっていた。
「畏れながら、私は、島津義弘公から一字を賜り、この名を戴いた身にございます。この身、すでに島津のものにございますれば」
秀吉は、その答えに、しばし義誠を見つめた後、小さく頷いた。
「そうか。まあ、よい。義理堅いことよ。だが、覚えておくがいい。儂は、そなたのような男の名を、決して忘れぬ」
その言葉には、称賛とも、警戒ともつかぬ、複雑な響きが込められていた。
義誠は、深く頭を下げ、御前を辞した。
箱崎の陣所を出た後、義誠は、しばし、その場に立ち尽くしていた。
太閤秀吉。この男が、これから先、天下を統一し、そして、この日ノ本を、遠く海の向こうまで巻き込んでいくことになる。
前世の記憶にある、その後の歴史朝鮮出兵、そして、秀吉の死後に訪れる、関ヶ原という大戦。今日、直に言葉を交わしたことで、その歴史の重みが、これまで以上に、義誠の肩にのしかかってきた。
「首尾はどうであった」
蔵人が、待ちわびた様子で尋ねてきた。
「……厄介な男だ。あの人懐こい笑みの奥に、底の知れぬ野心が見える」
「殿下に、直に会うたのだろう。恐ろしくはなかったか」
「恐ろしいというより……あの男もまた、乱世を生き延びてきた者の顔をしておった。私や、義弘公と、そう遠くない場所に立つ男なのかもしれぬ」
義誠は、遠く上方の方角を見やった。
だが、私は、この男の天下に、いずれ終わりが来ることを知っている。そして、その先に、島津が立つべき場所があることも。
雌伏の時は、まだ始まったばかりだった。
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あとがき
今回は、豊臣秀吉その人との直接対面という、これまでにない大きな場面を描きました。義誠にとって、前世の記憶の中の「歴史上の人物」が、初めて生身の相手として目の前に現れる回でもあります。
秀吉からの直々の誘いを、義誠が静かに、しかし迷いなく断る場面には、これまで積み重ねてきた島津への忠義と、義弘公との絆を込めたつもりです。同時に、秀吉という男の底知れなさを、義誠自身の言葉を通して感じ取っていただければと思います。
第四章も、いよいよ終盤です。次話では、この戦いを経ての島津家中の様子、そして雌伏の時代への入り口を描いていきます。
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