第三十四話 交渉の場にも刃はある
義久の剃髪から半月ほどが過ぎた頃、豊臣方から、正式な使者が薩摩へ送られてきた。
案内された名を聞き、義誠は、内心で僅かに緊張を覚えた。
黒田官兵衛孝高。根白坂の陣を差配した、あの男か。
対面の間、義誠は、義弘の名代として、その席に着いていた。官兵衛は、噂に違わぬ、静かな眼光の持ち主だった。歳の頃は義弘とそう変わらぬはずだが、その物腰には、戦場の武将というより、廟堂に立つ策士のような静けさがあった。
「有村殿の名は、こちらでも、よく知られておりますぞ。木崎原、耳川、沖田畷……そして、根白坂の退路の差配も、見事なものでござった」
「畏れ入りまする。此度の陣立て、官兵衛殿の手によるものと、私も見抜いておりました」
「ほう。それは光栄」
官兵衛は、静かに笑った。だが、その目の奥には、油断のない光が宿っていた。互いに、相手の底を測り合っているのが、言葉の端々から伝わってくる。
「単刀直入に申そう。此度の和議、薩摩・大隅二国の安堵に留まる、というのが、殿下のお考えにござる」
その一言に、義誠は、一瞬の間を置いた。
史実の通りだ。だが、ここで、ただ頷くわけにはいかぬ。
「官兵衛殿。それでは、これまで我らが命がけで平らげてきた、日向、肥後の一部までもが、すべて取り上げられることになりましょう」
「戦に負けたのだ。相応の代償は、免れますまい」
義誠は、しばし沈黙した後、静かに、だが、これまでとは違う温度で口を開いた。
「官兵衛殿は、根白坂の戦を、我らの敗北と見ておられる。それは、間違ってはおりませぬ。ですが、あの一戦、殿下は、いかほどの兵と時を費やされましたか」
「……」
「戸次川、岩屋城、根白坂。いずれも、豊臣方に、決して軽くない傷を残しております。そして、薩摩の山野は、これまでの九州のいかなる戦場よりも険しく、入り組んでおりまする。もし、条件が我らの意に沿わぬのであれば」
義誠は、そこで、一度言葉を切った。官兵衛の目を、まっすぐに見据える。
「我らは、降ることを止め、この山野に籠りましょう。木崎原で三千を破り、耳川で四万を破った我らが、二十万に対して、何もできぬとお思いか」
その声には、これまで義誠が幾度も敵に見せてきた、あの静かな冷たさが、確かに滲んでいた。
官兵衛は、しばし義誠を見つめた後、小さく息を吐いた。
「……脅しにござるか」
「脅しではございませぬ。此度の和議が、双方にとって、最も損の少ない道であることを、申し上げておるだけにございます。殿下は、九州を平らげ、次なる大事恐らくは、さらに西、あるいは海の向こうにも、目を向けておられましょう。ここでいたずらに時と兵を浪費することは、殿下にとっても、益なきことかと」
官兵衛は、しばらくの沈黙の後、静かに頷いた。
「その理屈、殿下にお伝えいたそう。日向の一部、そして大隅の他、幾らかの調整の余地を、持ち帰らせていただく」
「感謝いたしまする」
義誠は、深く頭を下げながら、内心で、静かに息をついた。
刃を交えぬ戦も、これまでの戦と、何ら変わらない。相手の見誤りを衝き、こちらの手札を、最も効果的に見せる。それだけのことだ。
交渉を終えた後、義誠は、一人、庭に出た。夕暮れの薩摩の空は、これまで見てきたどの戦場の空とも違う、静かな色をしていた。
蔵人が、そっと近づいてきた。
「首尾は」
「日向の一部と、大隅の調整に、まだ余地があるようだ。すべては、これから次第だが」
「刀も抜かずに、あの官兵衛とやらを退かせたのか。相変わらず、底の知れぬ男よ」
「刀を抜かずとも、脅しにはなる。これまでの戦の記憶が、言葉の重みになっているだけのことだ」
悪鬼と呼ばれた男が、今度は、言葉だけで、相手を退かせた。
戦場でも、交渉の場でも、恐れと結果を武器にする。それが、義誠という男の、変わらぬ在り方だった。
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あとがき
黒田官兵衛との交渉場面を描きました。刀を交えぬ場であっても、義誠らしい「恐怖と結果を武器にする」やり方を、今回はしっかり出したいと思って書いています。「降ることを止め、山野に籠る」という、静かな脅しは、これまでの戦場での冷徹さと、地続きにあるものとして描いたつもりです。
黒田官兵衛という、知略で名高い相手を通すことで、義誠の交渉術に、これまでとは違う緊張感を持たせられたのではないかと思います。次話以降、条件の詳細を詰めていく展開に進みます。
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