第三十二話 根白坂、退くも守る
天正十五年四月。日向、高城を巡る攻防は、膠着していた。
城代・山田有信率いる三百の兵は、なおも城に籠り、抗い続けている。だが、城を囲む秀長勢は十万を超え、後詰めに向かう島津方は、その包囲を崩すだけの力を、もはや持ち合わせていなかった。
義誠は、この数日、戦況を伝える文をいくつも読み返していた。豊後からの撤退戦、肥後の諸城からの後退——これまで積み上げてきたものが、日を追うごとに削られていく様を、義誠は数字として、嫌でも実感させられていた。
「高城の南、根白坂に、宮部継潤らが強固な陣を築いておるとの由。堀は深く二間、柵と鉄砲で固められておりまする」
義誠は、義弘の陣で、そう報告した。
「夜討ちで、これを崩す。忠隣殿が、そう進言しておられる」
義弘の言葉に、義誠は、僅かに眉を寄せた。
「畏れながら、この陣、あまりに用意周到に過ぎまする。夜討ちを見越して、あらかじめ備えを固めた気配がございます」
「見越して、とは」
「豊臣方の中に、こちらの手の内を、すでに読んでおる者がおるように思われます。これまでの島津の戦い方夜討ち、伏兵それを知った上での、この陣立てかと」
義誠の脳裏に、前世の記憶にある「黒田官兵衛」という名が過ぎった。秀吉の懐刀と呼ばれる、稀代の軍師。もし、この陣が、あの男の差配だとすればこれまでの島津の必勝の型が、初めて、正面から見破られていることになる。
「だが、家久様の兵も、高城の山田殿も、もはや限界に近い。動かねば、いずれ座して崩れるだけだ」
義弘の言葉に、義誠は、重く頷くしかなかった。分かっていた。座して崩れるのを待つよりは、まだ、打って出る方が良い。だが、その打って出る一手が、これまでのように綺麗な勝ちに繋がるとは、到底思えなかった。
「……分かりました。ならば、攻めるにせよ、退くにせよ、私に、退路の差配だけはお任せいただけませぬか。攻めが成らずとも、兵をむざむざ失うことだけは、避けねばなりませぬ」
「良かろう。お主に任せる」
義弘は、それだけ言うと、静かに目を閉じた。木崎原の頃から、幾度もこの男の采配に助けられてきたその表情には、そんな信頼が滲んでいるように、義誠には見えた。
四月十七日夜、島津忠隣を先鋒に、およそ二万の兵が、根白坂へと夜襲を仕掛けた。
義誠は、後方に控え、退路にあたる山道の要所に、あらかじめ小勢を配していた。
嫌な予感がする。この陣、崩すのは容易ではない。
その予感は、的中した。深い堀と柵に阻まれ、島津方の攻め手は、思うように前へ進めなかった。宮部勢の鉄砲が、闇の中を容赦なく撃ち抜いてくる。
「押し返されておるぞ!」
忠隣の隊が、次第に崩れ始めた。さらに、藤堂高虎、黒田、小早川隆景ら、豊臣方の後詰めまでもが、動き始めているという報せが届く。
このままでは、忠隣殿の隊が、丸ごと飲み込まれる。
義誠は、すぐさま、あらかじめ定めていた退路の兵に、松明を掲げさせた。混乱の中でも、味方が退く道筋だけは、はっきりと分かるようにするための合図だった。
「退け! 退路はこちらだ! 深追いは無用!」
義誠自らも、崩れゆく戦列の中へ駆け込み、算を乱しかけていた兵たちを、退路へと導いた。すべてを救うことはできなかった。忠隣をはじめ、多くの将兵が、この一戦で命を落とした。だが、義誠の差配がなければ、島津方の損害は、さらに大きなものになっていただろう。
「島津忠隣殿、討ち死に」
その報せに、義弘は、しばし言葉を失った。義誠もまた、重い沈黙の中、その名を、静かに胸に刻んだ。
それでも、全滅は免れた。今は、それだけで、良しとするしかない。
夜が明ける頃、義誠は、撤退した兵たちの数を、一人ずつ数えていた。多くを失った。だが、まだ、戦い続けるだけの兵は、残っている。
蔵人が、傷を負いながらも、義誠の傍らに膝をついた。
「お主が退路を固めておらねば、今頃、島津の兵は、根こそぎこの坂で果てておっただろう」
「褒められるようなことではない。忠隣殿をはじめ、多くを守れなかった」
「それでも、全滅と、そうでないのとでは、天と地ほどの差がある。今は、それを認めよ」
義誠は、それに、深くは答えなかった。ただ、静かに、うつむいていた。
史実では、この一戦で、島津の組織的な抵抗力は失われる。だが、私は、そうはさせない。
義誠は、遠く根白坂の方角を見やった。これまでで最も苦い敗北の中でも、義誠の目には、まだ、諦めの色は浮かんでいなかった。
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あとがき
根白坂の戦いを、史実の重さを踏まえつつ描きました。黒田官兵衛らの用意周到な陣立てにより、これまでの島津の必勝パターンが初めて正面から破られる、痛烈な一戦です。この物語では、義誠が退路の差配に徹することで、史実よりも被害を抑える形にしていますが、それでも島津忠隣をはじめ、多くの命が失われたという重さは、変えずに描きました。
「全てを変えることはできないが、少しでも損害を抑える」という、義誠のこれまでの在り方が、最も苦しい形で試された回だと思います。次話以降、この敗戦を受けて、島津がどのような決断を下すのかを描いていきます。
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