第二十五話 北へ伸びる手
沖田畷の勝利を経て、島津の勢力は、肥前のみならず、筑後、そして筑前へと、急速に伸びていった。
肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、東肥前の筑紫広門——これまで龍造寺方に近しかった小勢力が、次々と島津へ和睦や服属を申し出てくる。義誠は、その多くの交渉に、直接、あるいは間接に関わっていた。
「秋月殿は、龍造寺の後ろ盾を失い、これ以上の抵抗は無益と悟った様子。すでに、内々の話は進んでおりまする」
義誠は、義久の御前で、そう報告した。義弘だけでなく、本家当主である義久に、直に言葉を交わす機会も、この頃には珍しくなくなっていた。
「お主の名は、九州の隅々にまで届いておるようだな。降る者が、我先にと使いを寄越す」
義久の言葉に、義誠は静かに頭を下げた。
「私一人の功ではございませぬ。これまでの戦の積み重ねが、そう見せているだけのこと」
「謙遜が過ぎるのも、考えものだぞ」
義久は、そう言って、微かに笑った。傍らに控えていた重臣の一人が、感心したように呟いた。
「木崎原の頃には、まだ元服前の小僧であったと聞くが……今や、義久公に直に意見を申し上げる立場か。時の流れとは、恐ろしいものよな」
義誠は、それに小さく頭を下げるだけで、多くは語らなかった。
だが、義誠の胸中には、この順調な進撃の裏で、次第に大きくなっていく不安があった。
——史実の通りなら、遠からず、上方から惣無事令が届く。
豊臣秀吉。前世の記憶にある、その名の重みを、義誠は誰よりも知っていた。九州の大名同士の私戦を禁じ、これに従わぬ者には、天下の軍を差し向けるという、これまでの敵とは、まったく次元の異なる相手だった。
「義久公。一つ、申し上げておきたきことが」
軍議の後、義誠は、義久に人払いを願い出た。
「なんだ」
「上方の豊臣秀吉という男、いずれ九州の争いに、口を挟んでくるやもしれませぬ。もし、私戦を禁じるようなお達しが下った時、これにどう応じるか、あらかじめお考えおきいただきたく」
義久は、義誠の言葉に、意外そうな顔をした。
「豊臣が、九州にまで口を出すと申すか。まだ、そのような話は届いておらぬが」
「確証があるわけではございませぬ。ただ、備えておくに越したことはないかと」
義久は、しばし義誠を見つめた後、小さく頷いた。
「お主の勘は、これまで幾度も当たってきた。心の片隅に、留めておこう」
義誠は、御前を辞した後、一人、重い息を吐いた。
——言えるのは、ここまでだ。「秀吉軍が二十万を超える」などと、確証もなく口にすれば、正気を疑われるだけだろう。
前世で知る歴史の大きな流れを、義誠は変えることができない。だが、その流れの中で、少しでも多くの命を守る道筋を、探り続けることはできる。それが、木崎原の頃から、変わらぬ義誠の在り方だった。
蔵人が、外で待っていた。
「浮かぬ顔だな。この勝ち戦続きで、珍しいことよ」
「……勝ち続けることが、必ずしも良いことばかりとは限らぬのかもしれぬ、とふと思っただけだ」
「相変わらず、分かるようで分からんことを言う男よ」
蔵人は、それ以上、深くは尋ねなかった。
筑前の秋月種実、そして筑紫広門も、間もなく島津への服属を正式に受け入れた。義誠が調略の糸を引いた、幾つもの小勢力が、次々と島津の傘下に加わっていく。
九州の地図は、いよいよ、島津一色に塗り替わろうとしていた。だが、義誠の胸には、これまでの勝利のどれとも違う、静かな緊張が、確かに宿り始めていた。
——あと少しで、九州は一つになる。だが、その先に待つものを思うと、素直には喜べない。
北へ伸びる島津の手は、確かに九州を掴みつつあった。だがその先、海の向こうから迫る、もっと大きな影に、義誠だけが、すでに気づき始めていた。
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あとがき
今回は、筑前・筑後方面への進出を、史実に沿った形で描きました。秋月種実、筑紫広門といった実在の国人衆の服属を背景に、義誠がいよいよ「豊臣秀吉」という、これまでとは次元の違う相手を、義久公に対して匂わせ始める回にしています。
確証のないまま、未来を語ることの難しさ——義誠が抱えるこのもどかしさを、今回は特に意識して書きました。次話以降、いよいよ惣無事令、そして岩屋城の戦いへと、物語を進めていきます。
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